・以前所属してたバンドにギターで参加させてもらってる。
・・九州ツアーも行ってしまいそう。
・・好きな風に弾いていてそれでいて割とマッチしてるのだと思う。客観的に言うと。
・・・自分の演奏の装飾的なところ。責任が低いところ。
・・・その場でパッパパッパ思いついて実行するのが楽しい。いつもアレンジの過程その途上にあり輪郭が濃くなって洗練されていくイメージ。
・・・・これはそのままその場その場で作編曲するのが楽しい、ということだと思う。
・・・演奏技術も反復可能性による側面が多いにあるだろう。その点で楽器演奏はとても苦手だ。
・・・・宅録はやり直しできる。よかれあしかれ
 
・それで、こどもの日にマリリンモンローズというバンドが対バンだった。
・・舞台の上の人としての気合、凄みみたいなものも感じた。
・・・自戒として照れてはダメだ。全部演技にしてしまえばいい。
・・面白い点たくさんあった。そして、恐らくある一点で尾崎豊に似てて、でも、それを言葉にできない。
・・・髪型かもしれない、曲の一節かもしれない。わからない
 
・どう働こうか考えてる。
・・「働く」を永遠のテーマにしてこじらせてばかりもいられなくなった。
・就職活動してます。
・・就労に関する行政窓口など色々足運ぶも特別結果は出ない。
・・・行政に何ができて何ができないかということは少しわかった。
・・・・ある種の人間には、占い師や神秘家があなたの天職はこれです!と暗示かける方が効率よいかも。
・対価を得る仕事として音楽以外にできること、やったことあることはほとんどない。その音楽すらも分野としてはとても限定的なものだ。
・・http://anond.hatelabo.jp/20110507090127 わたしも普通のことができない方だ。対価に申し訳なさを感じることはないけれど。趣旨とはずれるだろうがアバッキオのセリフを絡める。
・・・荒木ジョジョ5部のアバッキオのセリフは、行為一般について、その社会性とか主体の責任とか諸々について物思う時に思い出す。「命令されてる方が楽。自分で考えなくてすむから」というような内容だったか。
・・・・わたしは広義のパターナリズムの元にやってきた人間である。どこまでも安心していたいのだ。それから離脱するとはどういうことか。自由な精神、主体とはどんなものか。モダンな問いなのかしら

タイトルだけでいえば、35歳まで、でなく、15,6で読めるといいのかも、という本。就職活動前、それ以前大学入ったぐらいにこの本に出会えたら、少なくとも単純に時間、年齢の観点から、この本の内容、趣意を実践していける可能性がある。その年代の若い人は読んでください。ぎゃーか、ふむふむか、けっとうっちゃるか、色々反応あるだろう。私はその頃ならけっとうっちゃっただろうし、今は32歳でぎゃー、ふむふむ、と思うところもあるし、また別に思うところもあるわけです。

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時々刻々激変していく国際的な労働市場に相対しながら、日本の会社社会、その歴史、慣行など諸々の条件下で、動機と能力を、市場価値を持った仕事として戦略的に発揮していく、という内容。その成功例のインタビューも幾つか。

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書かれているような成功例はどれぐらいなのだろうか。成功の例があるなら失敗の例もあるだろうし、失敗の方が多くてもまあそういうものだろうなとも思う。そもそも、この実践を意識的にしろ無意識的にしろやってのける、やっていこうとする御仁は如何ほどいらっしゃるのか。また、この競争のスタートにすら立てない人、あるいはあえて立たない人もいるだろう。翻るに、著者は自身のキャリア論を唯一至上のものと主張しているわけではない。ただ、今までのやりかた、社会的伝統的な範に基づく仕事の仕方(年功序列とか終身雇用とかのバックグラウンドが一律で無くなってるのかどうかわからない)では、保障が脆弱だからこれからより色々リスキーになる一方であるし、あるいは収入の面からは今まで享受してきた暮らし、生活を享受できなくなるだろう、ということをデータ化してた(ちゃんと出典出自確認してない)。

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で、国策、雇用政策、教育という話はともかく、また新自由主義的な、リバタリアンなどイデオロギー、成長神話などはともかくと、信条、価値論は置いとくとして、書かれていること特に「動機」「能力」についての分析や、働くことに関する諸価値観諸概念(ワークライフバランスとか)に参考になることがあったので、それらアンカーにして、より広範な一般的な人間の営為にまで敷衍できたら、上記のビジネスパーソンではない人の生き方の方法論におけるヒントにできるのではないか、と。

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引用たくさんされてた「プロフェッショナルの条件」は読みたいな。

まのまの〜


ちゃんまのの切実な悩みを回収するほど「アイドル」って懐広いの。これも今更か。
情報はインもアウトもツーツーになって、色々バレてばれてるよって開き直って言ってみたり、ばれてない振りしたりする。まだばれてないこともあるかもしれない。
どれだけ既存のメディア形式に依存してたのか<「アイドル」
コミュニケーションコストがとことん低くなって、そのマネジメントコストが反比例してべらぼうになったことについて。飛躍していえば、面倒くささ減ったと思ったら、減ってない!いつも一定の面倒が付いてくるので、どの面倒がいいですか、とかしこく選べたらよいのでしょうか。

オプオプオプ

タレルのオプアート?見てきた。
人間の生理、視覚を作品自体に組み込んでて、なので、大雑把に「身体」テーマに括られるのかな、と思ったけど。
戻るべき原始の「身体」なんてあるとはいえないし、そんなこと誰も言いやしないか。作品を通して、新しく組み込まれ作られながらも、ありありと元々あったと想定される、普段は知らない「身体」を意識させられる、ぐらいの言い方がしっくりくる。そもそもが「身体」って広い。いや自分はその単語いつもぼんやり使ってしまう。
「対象−視覚−生理−(身体)」≒作品、というような。ニアリーイコールって便利だな。
あと、モダンアートの鑑賞の「距離」について。距離それ自体がテーマの作品もある。距離を無視できる作品もある。メッセージに特化したそれは特にそうだろうけど(皮相では、距離変わってもメッセージの内容は変わらない)、あとはどうですか。美術館や肉眼で見なくても、あるいは極端には媒体が対象が何でも、「意味」は変わらない。広島の空に「ピカッ」と飛行機雲だっけで描く「意味」の一定。逆に、その固有の場所でないと「体験」できない作品は、前述のタレルさんか。距離の絶対化。作品に包み込まれる。
仮に、美術館で作品を鑑賞する、人が誰かの絵を見る、そういう前提、従来のシステムとか制度を相対化したものを「モダン(アート)」である、とする。
モネの絵を見てて思った。物理的に視線の位置・距離が変わると「意味」が変わる。50cmの至近で絵の一角をまじまじ見つめること、同じ風に一角また一角と一つの絵をうろうろすること。あるいは、ばっと絵から離れて全体を眺めること。
その点モネの厳密な意味での技術スタイルが特定の意義を持つのかもしれない。近づいたらただの点になる。離れたらどうか。何か具体物のイメージに見えたりする。「作者」がいてその「作り方」がある、という側面。
その仮定から言えばモネさんも随分モダンかね。じゃあモダンじゃないのってどんなのなの。写実的な作品?宗教画?古代壁画?あるいは、それは作品の属性でなく、鑑賞の属性なのか。

どっこい生きてるの「ど」

やあやあ。
「普通の」人間になることって大変ね、とその「普通」の何であるかもわからぬまま、何となくのイメージで、満つることも欠くることも知らず、日がな夜がなをただただやり過ごしている、のだろうか。うむ、いいぞ…、こういうどっちつかずに空をきるきるどんよりあがきめいた出だしはよい。敏さはなくて重いだけのパンチがある…。なんて、まるで他人事のようではないだろうか。きっと実際のところ半分ぐらいはそうなのだろう、そんな風に適当に言ってのけた判断って結構叶うらしいよ(DAYONE-!)。嘘、嘘(EEEEE-!)。ともあれ「普通」はおよそ自動でやってくるものなんかでなくって(そういうイメージでしたよね?)、いや、そんじょそこらのそのあたりにあるものでもなくって、じゃあ、と、全くどこにでもないものであるか!ムニャムニャとも言えず、じゃあじゃあ、何なのか、知らない。面倒くさーい。
天秤の向こうにどんなものをかけてもいいのだが、いいのだがといいつつも余りにステレオタイプな例しかかけられないのだが、昭和の成長期のサラリーメンでも、はたまた直近の飢餓の子たちでも、原始時代の苦労原始人たちでも、かけてみて、どうですかね。やっぱり向こう側はずっと重いですかね。こちら側は何かって?フフフ
思想という名の屁理屈という名のおためごかしを滔滔と語り再生産に一切関わらず、消費と破壊と、あとなんだろう思いつかないけれども、そういったものにだけいい顔をする輩は太陽に飛び込んでですね、燃え尽きる瞬間に何色かの炎をフシューとあげてですね、え?どれ?どの炎なの?まばたきしてたよ!もう一回!って、頭がこんがらがってきたわ。自己批判って対象を自己オンリー限定するのにも難しいよね。そうだ、今年は素直になるんです。いや今思いついたんだーい。だからさ、こういうちょっとひねくれた文章書くのどうなの?書いてて楽しいの?自分の文章、好きですよー。そしてここはチラシの表です。そんなことどうでもいいなー、と言いながらやっぱり書くのよ。

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こういうのって青臭いんですかね?32歳になるのですが…。時に、年齢について言及することも習慣の一部に過ぎないとしたらどうだろう、大したものだねー。つかまああれだ、生物だからな、だから年齢確認が習慣の一部、生活の一部である、いや一部でしかないとしてもだ、実際生物であることの方が圧倒的に要素として強いから、まああれだ。「体は言い訳しない」。誰が言ったの…?この言葉。何でまるで大層な昔の偉い人の引用みたいにカギ括弧に入ってるの、怖い。「体」から飛び出して行きたいよね!んー幽魂の離脱などじゃないよ?たださ、幾つになっても自分の年齢にいいわけしてるようでさ、じゃあどうやって受け止めるかね、無視するのでもなく、無理するのでもなく、現状認識として。それでもまあ今まできっとよく生きてきたよね!いい意味で言ってますよ!これらは叫びですよ!
私は職業訓練を受け早二月が経ち、訓練された何者かになりつつあります。文章にも切れがあると思いませんか?あけましておめでとうございます(みんな、ちゃんと、してる)。

世界の何を背負うのだ

一つでも大事なもの大事にできたら、と日毎思う。それとはまるで相反するかのように、自由の、可能性の条件を探る。
名前も残さず、何もなさず死ぬ。
とシリアスぽいことを書いたらおちんちんビローンといったようなことを大急ぎで書かねばならない。「書かねばならない」だってプププ。そういう作業は面倒であるなどとおくびにも出してはいけない。今急に21エモン読みたくなった。あほーあほー

ジャーナル

極端だけど「世界の原理、価値、大事なもの、それに関する情報が相対的にであれ統一される、そのようなメカニズムはあるか」。
・限界的な状況における情報選択
地球の直近のカタストロフや、交換経済の停止などとなると、ほぼみんなその情報を欲しがる。あるいはそれでも日課の釣りのために天気予報を大事とする人がいるかも、または祈るために情報を遮断しようとする人がいるかも。だけど大多数が一時にそれに関する情報を欲するだろう。
・「欲しい」情報の序列を機械的民主化するグーグリズム。
生命の生死という限界的な価値についても、アテンションの序列が働くことだろう。アテンション高いのは、その情報の行動に関する効用からかもしれない、あるいはつっこみがいがある情報だからかもしれない。ただ、どちらであれ、重要「だから」みなが注目するというような因果説明よりは、みなが注目していて、そしてそれは蓋然的に重要だ、という記述の方がしっくりはくる。
時は急を要する、限界状況なら、という仮定が、情報選択に関する議論一般に質的な相違を与えるかも。極端過ぎて「量」の問題でなくなる、他のもうちょっと日常的な情報についてなら、「量」の問題としておさまり議論を条件づけられる?
・行動するにインプット、情報が多い、極端には価値の相矛盾する情報があったりすると、アウトプットたる行動はどうなるか。動けない、というのは直感的だ。行動心理、認知心理の話かしら。
過激なデマやプロパガンダは対して正負の行動に連なりやすい。デマがプロパガンダがそれらである条件は一つ人々の行動を制御せんとするところにあるだろう。時間経つに、結果的に、反省するに、デマだったプロパガンダだったと、判断できることはある、可能性の問題。

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「情報の価値化」自体が情報リテラシーにつきまとう問題なら、リテラシー教育は根拠がいつもさびしい。何故ならリテラシーは一つの価値以上のものでも以下のものでもないから。前提とされる「より自明な」価値、理念は何か?目的的な懐疑、方法的な懐疑。