クレームブリュレクリーム/クレッブリックリッ

twitterだけじゃないけど、色んな人の作品
テラピコpiko
http://www.nicovideo.jp/user/394193/video
メロ・コード進行好き。大胆転調抱きたい。
【巡音ルカ・初音ミクAPPEND】ケティ【オリジナル曲】 - ニコニコ動画
ギター打ち込みとは・・・
【巡音ルカ】Namenlos【オリジナル曲】 - ニコニコ動画

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かなも
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http://clubt.jp/shop/S0000035895.html

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snoa
http://noxi.jugem.jp/?eid=20
屏風の世界入って点検したい

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おくのくん
見上げた桜

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らっちゃん
in the public toilet

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まだまだたくさん!すごい!

マルマルティティーマルマティー

Maltine Records - [MARUA-001] Maltine Records for iPhone / iPod touch
‎Maltine Records on the App Store
マルチネさんの音楽アプリ。ipodtouchでダウンロードした。音源ファイルはサーバに置いてあってダウンロードしたアプリさんでアクセス、という仕組みかな。
 
iphoneなど電波あればすぐその場で
・名刺みたいになる。
それに以後
・アプリ経由で宣伝、広告展開されるから情報バンバン送れる。
 
アプリパッケージ−レーベルパッケージで、初めて。カタログの多さも歴然と強みだわー、と唸った。蓄え豊富でアクセサビリティ含めスピードある、強い。そのまま彼らの活動自体にも言えることだろうとも思う。

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適当な事いうと、内容はまあ別にして「作者の死」もじって、「作者生きてる」。それは従来のマス(メディア+プロダクト)のイメージ管理、その統合、方向とは当然異なり、作品のひもとしての(ウェブ)コミュニティってものの大事さだったり、もっとミクロな対話だったり、対話でない対話?だったり。揶揄なき「ROM/DOM」。「コンテンツ」って概念の含意が広がるということ。作品の中に作者は生きるし、作品はコミュニケーションになる。受け手と作り手が混交する(そういう意味でいわゆる本来的な「作者の死」が問題になるかも)。
id:altaさんとの「flyyying girl」もそうだと思ってる。「コミュニケーション」。一般的に言うことで楽観を示すつもりはないが、転がし続けることに意味が可能性がある。閉じない作品。更に、オルタさんのいう「グローカル」の、時空間の制限が質の隔たりでなく量の問題になったからこその逆説(情報として描写される限りで)。それは、群馬であること、イワオカであること、北海道であること・・・。あるいは、ニッチがモンドが死ぬこと、ロストワールドが無くなること(テクノロジーへの過依存過信頼か)、全てがフラットに、点に、量に換算されること。可能性がゼロでなくなって(質から)、可能になること(量)。ログがあらゆる条件に照らして死滅するまで、我々は不死であること。完全にたがが外れた最も広い意味での「コミュニケーション」、可能性。重ねて楽観でないのは、我々がやはり有限であることであって、そしてそれは際立っている。だからかしこくないといけない。新しい倫理。甘美のうちに死ぬ意味、無為の意味が変わる。
という原点原則の再確認。

エレホン

武さんの
芸術労働者宣言/武盾一郎

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古く新しい問題。芸術も労働も。接続が難しいのは、ひとまずどちらも自律したもの(何なら実体化体系化したもの)として認められうるからかな。自律なんてのはそれこそアナクロでしかないかしら?わからん。ともあれ、両者概念化して考えていくにどの方法をとるか、と、気宇壮大だとしても。
芸術のナルシシズムは、芸術家の死であるいは作品の死で一つ極点を見せる、ってのも古いだろうか。それは「月と6ペンス」に読まれることだ。どこまでもほのかな憧れではある。
わたしは、大きな物語とやらが無くなったという仮定を受け入れて、じゃあ自分の個人的な物語を(物語としては「訳せない」かも)、寄る辺ない脆弱なそれとして、形而上的(学ではないです)な価値論を打ち立てるのを一つの可能性だと考えているものだが、返す返すもそれは独善、自己満足でしかないと思う。卑下もどうでもいいが。ポストモダンでは強迫的に何かしら言い訳させられる気持ちになる。ビックリポストモダンの幽霊や妄想に憑かれてる(エクスキューズ)。責任転嫁かしら。
翻るにその形而上的価値は「(科学)技術」に極めて多くを依存している。記録の複製のテクノロジー、通信のテクノロジーです。今自己言及してる。で、それら諸技術にも同じように自律的な価値の領域があって・・・。脱線すると、ログの不死性−わたしという人間の何がしかの不死を謳うことになるかもしれない。不死を直接望んでるわけじゃない。でも楽観的にはちょっと安楽な気分だ。改変も書き換えも更新も可なログであるが。更には、ログで不死になった人間の可能は、究極は70億が端末でインターネットすることアクセスすることに関係してくるだろうけど、何というか、例えば、民主化などがテーマではなくて、ただの(芸術)作品の可能性、その自己弁護みたいな話。他人事みたいにここまで読み返したら夢想だな。まあ何ならちょっとした喜びということだけど。

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さてもさても、自律自律というが「公共性」という概念というか理念というか、が上記諸概念をじっと見てる。あるいはそれらの諸契機となりうる。あるいは今やそれらは分けては考えられない。「公共性」という概念理念は少なからず実践的だろうし現実的だろうし、自体としてもアクチュアリティある風、それにまつわる現行の議論盛んな風に見える。
道徳も倫理もイデオロギーも思想も主義も本質も大きなそれらは爆発四散して、それ以降・・・というような話としての「公共」、という風に大雑把にわたしは認識しようとしてる。不勉強で大分飛躍もある。
そうだ、「公共」で、芸術や労働といえば、アレントさんの「labor,work,action」と強引に。「人間の条件」途中までしか読んでない・・・。話としては、ギリシアなどの公共圏が近代では逆転して現代では云々というところが筋なんだろうか。

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

ちょっとずれて、勤労イデオロギーについては、これ面白い。これも途中までしか読んでなくて、結論があるのかあるならどうなのか、勤勉と怠惰の関係の逆説性を記述してたりする。

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あとピンポイントに労働者の位階についてもまた難しいなあ。正規非正規とか。自分で自身をマネジメントしなければ誰もしてくれないというざっくりした意味では、全員経営者じゃないかと一般化できるけど、その言い方ではあまり何も提出できないのかしら。雇用については保守的な反動を感じるところもあって、安定は当然欲しいし、それと冒険的なラディカルな起業家精神などについてはぐむむと唸るだけ。慣習、風土ってポイントから見てみたり。競争社会の殺伐といえばそりゃそうだし。
自分は芸術家ではないから(というのも言い訳じみるが少なくとも自称はできない。言葉の使用の問題)気が楽なところがある。音楽と「ビジネス」については時々考える。自分のできることは何だろうか。そうかテクノロジーで安心してるんだわ。これは何か違うね。よくない気がする。

ゆのまいねーむ

生チョコアイス空箱だけ冷凍庫で冷えてた・・・。どうしようもなく善人なので捨てたけれど、ドッキリボックスとして冷やし続けたらよかったと今思う。

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まだ途中。ギブソンアフォーダンス生態学的「自己」。批判対照される主観哲学、心理主義の「自己」。著者は、デカルトのコギト、カントの自己、フッサールの自己などを抽象して「実体」視してる、といえるだろうか。でも、彼らはそれぞれの「自己」をそれぞれに要請する根拠をもっていたのでは、と素朴に思う。それらにおいては抽象化できない側面。「自己」が実体化されてきたプロセスや、その結果としての心理主義的自己観については、ふむふむと思うところある。
あと、生態学的な自己と主観哲学的な自己、どちらもまずプラグマティカルな立場からは両立しうる、と思った。加えるに上述の自己とは対置しうるであろう客観主義的な「自己」唯物的な「自己」など含めて。思弁が実践にどうつながっていくか。

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一人に慣れると、対人で「活発に」喋ることに億劫になる、とは言えるかしら。黙ってたら不安にさせてしまうだろうか。少しでも聞きたいことを思いつけばまったくその限りでない。シリアスでないのだ。いやいや、ただただ気分の問題なのか。だとしたらいつだってハイだとか、ダウナーだとか、それらのモードみたいなものを選ぶに汲々とすることが、社会性、社会的なあり方、責任と関係してくるだろうか、などと無責任に連想するも、やはり特別真剣でない。内的な気分の「社会的」な馴致、などといわず、ただ行動を習慣化しろ、ということだろうか。

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自分に子どもができたら、生の喜びを教えないといけない気はする。そんな自信はいまのところまったくない。生の喜びなんて書くと大層にも思うし、どちらかといえばそういう物言いに瞬発的にひねくれて、懐疑的になる。とはいえ元々既存の価値に絶望してるのではなく、ナチュラルに「望み」なんて持っていないだけなのだと極めてあっさり言ってのけられる。それらは自明に与えられるものではない。みんなで似たような夢、生の諸価値を見ている時代はあったのだろうか。実にそれらは「あった」ような記憶もあるが、今はなんとそれらの亡霊と必死で闘っているという事実、そのような実感の方がいっそう圧倒的であるように思われる。それらはあるときには死んだといわれたり、あるときにはまだ生きてて人を苦しめたり、何なら首を絞めて殺してやりたいが、それはわたしの首を絞めることでもあるのではないか。イデオロギー(笑)として排除するには少し内面化されすぎている。ところでイデオロギー(笑)と書いてるときは、笑いながら書いている。イデオロギー(怒)!これも笑いながら書いた。(笑)(怒)
目標という意味での夢や目的は考えられる、思惟される、追及されるが、それは希望や幸福とは別だ、と切り分けることに、例えば、問題解決のための手段だとかいったような意味があるとすると、ひとまず後者にはそれらが人間存在の「状態」であるということを特質として見出せそうだ。けどまあいいか。どっちが先?ということより、だましだましの循環のイメージ。
ここにおいても始めからも、能動的な主体的な人間像はこととしていない。わたしは怠け者である、ということから、何かを飛躍一般化するつもりはない。ケセラセラ。そうわたしは怠惰だし、だし何。そうだ、刹那的。下手な考え休むに似たりと馬の耳に念仏されたい。ずっと休んでいるのか。関係ないが、岡田さんが読みたい本の幾らもあるのなら同じ本を読むのは贅沢ではないかというようなことを言っていて、そだわとは思った。読みたい、し、読まないとだめなような気がする、などもある。モナドも計算していた、一年で100冊読むと、60年で6000冊だ。読みたいの読むに足りますか。でもわたしはその贅沢をよくやる。これは「鈍い」快楽のようにも思える。反復の快楽、知っている事柄をただただ過ぎる快楽。贅沢だ。わたしは一生を永遠に生きる。死にましぇん
 

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ともあれ一般的で価値的な言葉の「使い方」の問題は、あなたがわたしがその言葉をどのように使うか、説明するか、生きるかということにより解決し続けられる。
 

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さゆのグリーやたかしゃいのブログに亀が出てきてかわいいなあと思った。

あはああ

panasonicのRP-HJE150ってイヤホンを買った。安いけど音がいいって紹介されてた物です。1000円弱。使ってた純正のイヤホンは右だけ聴こえたり左だけになってた。接触がおかしかったのだろう。新しいそれでちょっと使ってみると、低音がちょっとモーンと出る。ぶっきらぼう。そして耳の穴にいやにフィットする。よかったです。
 
たまに亀ちゃんの写真画像を見る。そうだ写真集を整理した。整理中に思うままいくつか開いたら、そこここに写る彼女に目がとまって、また少しいままでと違う印象を重ねることになる。もうここに写る彼女はいなくて、それはそもそもその今そう思わなくてもずっとそうなのであったのだけど、何というか、彼女はずっといない、というか。時間の流れのことなので。ニコニコしてかわいらしい人だ。新しい写真集は買うだろう。でももうきっと写真集を買うことはない。さようなら。
 
自己啓発やビジネス本が苦手だった。それらにおいては、当然だろうけど、進歩、向上などの価値観、方向が前提とされてて、手にとっていけば出版業界の続く限りあれもこれもとキリがないように思えるし、また、自己に何らかの別の精神を読書という仕方であれ何であれ取り入れることに抵抗や不安があった。というような説明を持ってしてそれらを適当に回避してきたけれど、ここ数年は読んでいて、じゃあ自分の何かしら、考えが変わったのかというと、思い当たる節は特別ないし、説明、理由も考えていない。自己啓発本を読まない理由、読む理由なんてまったくどうでもいい。必要とされてないだろう、とまで言いきると過ぎてる気もする。ホントも嘘もくどくどすると耐えられない。ホントよ。ところで「頭がいい人、悪い人の話し方」って本を今日読んだ。これは反面教師の例の列記といった風。それもいささか極端な例、戯画化と受け取った。今読みたい本でなかった。
 
AKBの新曲のPVをチラッと見た。モノがいっぱいでカラフルであるし、ずっとベッドの上でゴロゴロしてるシーンだけでいい、唄のカットが挟まってないバージョンがあるなら見たい。健康さがいいと思う。
 
あと松浦亜弥の蘇州夜曲など見たりした。シングルCDという形式は呪わしい。唄は情報になってる。一万回唄われる前にCDになる。瞬発力と100年が一緒になれればいい。つうかまあ音楽聴くということがよくわからない。わかってないことを意識しない時は調子がいい。そういやshinimaiさんのネットレーベルの話、面白そう、膨らみそうとも思う。ぼくは何らかの社長になるので、起業の本を読んだりしています。

楽しかった

永遠に続くことなんてあるはずもないのに、いや永遠なんてもともと思いもしなかった、そんな口に出すのも恥ずかしい、どことなく物憂げな観念を頭のどこにもよぎらせることなく、それでいてやっぱりずっとずっと今のままのような、ぼんやり膨らんだ時間感覚の中で、わたしが怠惰にい続けることを許すも許さないも、それはあなた次第なのだ、ということでは、決してない。
わたしはきっと何も選んでいないし、ここには何の契約もなかった。劇症じゃなく、あるのは鈍い死に様とも言えない透明に拡散するような経験だけで、それは今でも限りがないように薄く平べったく引き延ばされていく。
竹富の地元の子からメイドさんまで、色々な姿かたちを思い出す。それでもあなたのことは1パーセントも知らない、そして、これからはもっともっと知らなくなっていく。けれど、時々こうやって記憶をイメージを反復することで、別に何を補うでもなく、ただ感傷にひたるでもなく、何とも言い得ず、じゃあ一体これは何なのだろうか。あなたのことを少し考えて、勝手にイメージを押し付けたり読み取ったりするに悪びれず、返す返すもわたしの人間があなたのどこかに引っかかって今ここまできたわけで、ヘラヘラ笑うあなたにわたしも思わずヘラヘラ笑ってしまう、ただただ他愛なくそれだけのこと。そしてちょっとした特別なこと。

sir yes sir


「sir duke」のサビのコード進行ごまかしてたのだけど、しっかりと聴く機会があったので。
多分| B | E#m | E | C#m7 F#7 |です。2小節目の「E#m」をごまかしてた。キーがBならこの「E#m」は基本的にでてこない約束なんだよ。この部分パッと聴くとまずベース音「E#」は使われてるので、じゃあコード「C#7onE#」か「E#m7-5」なら、オーケーよ。でもそれらを使ってもオリジナルの響きとはどうもどこか違う。耳をすませましたらベースフレーズが「E#-G#-B#」。この最後の「B#」がゴキゲンですけど、でてきて欲しくない音でした。お皿が割れた。だって半音下がって「B」ならわかりやすく、対応するコードもすんなり「E#m7-5」でいけるのに。でも「B#」の音でてきた。でてきて欲しくないのに。じゃあゴキゲン斜めかというとそうでもない、やっぱりゴキゲンなんですねー。
この小節だけキー変わってる、転調してると考えたらどうか。ちょっと楽しい。つまり、別のキーから一時的にコード借りてきてる、呼び出してるのです。何を呼び出してもいいかというとそうでなく、次のコード「E」にシャレオツに連結するファッキンコードがファッキンシャレオツであればあるほどよいのよ。それがスティーヴィーには「E#m」だったと。アレンジャーは本人かどうかわからないけど。それはそれとして、このコードの記述を一般化すると「?#m」、あるキーの音の順列における4番目の音の♯音をルートにしたマイナーコード。繰り返すにこいつなかなか流れの中でポンと出てこない。他にこのコード進行の類例思い起こそうとしたけどこれもまったくでてこなくて、これはこれでまあ脳の問題だ。?#m導く一般的な方法あるのかどうかわからない。例えば、B#の平行調がG#m、その同主長調のG#の平行調がE#m、とでてくるけれど、蓋然的だ。
ことポピュラーミュージックに限り、ドラえもんの関係でコード理論の基本の基本を説明できる。大雑把だし強引だけど。のび太の動き=音楽の動き、流れとして、じゃあのび太がどう動くか、ということ。ここではドラえもんジャイアンとスネオの三者の間を、のび太が行き来するその行き来の仕方。ドラえもんは「トニック」頭文字とって「T」という役割、機能。ドラえもんは安心、安定。ジャイアンは「ドミナント」頭文字「D」。不安定、緊張。暴力すごいし不合理だ。スネオは「サブドミナント」頭文字「SD」。ドミナントであるジャイアンの手下。ジャイアンよりはましだけど不安定、緊張する。意地悪。ひとまず、しずちゃんがいない、大長編のジャイアンはいい奴などは置いておく。
こういう3種類の役割機能を持ったコードがあって、のび太がそこをあっちこっち行き来するんですが、彼の生活を思い浮かべてみるとどうか、スネオきっかけで、ジャイアンにいじめられ、ドラえもんのところ帰ってきてその苦悶を切々と訴える、というようなパターンは典型的じゃないでしょうか。コード進行でいうと、「SD→D→T」。スネオジャイアンドラえもん
上記のsir dukeのサビは
| B | E#m | E | C#m7 F#7 |→| ドラえもん | ? | スネオ | スネオ ジャイアン |
と強引にあてることができる。?は役割わからない。
それでまぁこれだけで何なのだ、のび太とは何なのだ、コードは三種類しかないのか、そもそもコードって何だなどと詰め寄られると唸るしかないし、もとよりコード理論奥深くてわからないし、ドラえもんは個々のイメージ思いいれが色々あるだろうし、すみません・・・。

ドラえもん抜きのこのコード話含めてバークリーのジャズ理論−ポピュラー音楽理論、楽理を当然もっと俯瞰的に丁寧に説明しつつ、理論の進化、理論史、概念史、ポピュラー音楽史という側面ももってて、よかったです。スネオの弟とかジャイアンのお母さんとか出てくると思います。この本元にして細かいところ気になったら専門書へというコースはよいね。