マルマルティティーマルマティー

Maltine Records - [MARUA-001] Maltine Records for iPhone / iPod touch
‎Maltine Records on the App Store
マルチネさんの音楽アプリ。ipodtouchでダウンロードした。音源ファイルはサーバに置いてあってダウンロードしたアプリさんでアクセス、という仕組みかな。
 
iphoneなど電波あればすぐその場で
・名刺みたいになる。
それに以後
・アプリ経由で宣伝、広告展開されるから情報バンバン送れる。
 
アプリパッケージ−レーベルパッケージで、初めて。カタログの多さも歴然と強みだわー、と唸った。蓄え豊富でアクセサビリティ含めスピードある、強い。そのまま彼らの活動自体にも言えることだろうとも思う。

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適当な事いうと、内容はまあ別にして「作者の死」もじって、「作者生きてる」。それは従来のマス(メディア+プロダクト)のイメージ管理、その統合、方向とは当然異なり、作品のひもとしての(ウェブ)コミュニティってものの大事さだったり、もっとミクロな対話だったり、対話でない対話?だったり。揶揄なき「ROM/DOM」。「コンテンツ」って概念の含意が広がるということ。作品の中に作者は生きるし、作品はコミュニケーションになる。受け手と作り手が混交する(そういう意味でいわゆる本来的な「作者の死」が問題になるかも)。
id:altaさんとの「flyyying girl」もそうだと思ってる。「コミュニケーション」。一般的に言うことで楽観を示すつもりはないが、転がし続けることに意味が可能性がある。閉じない作品。更に、オルタさんのいう「グローカル」の、時空間の制限が質の隔たりでなく量の問題になったからこその逆説(情報として描写される限りで)。それは、群馬であること、イワオカであること、北海道であること・・・。あるいは、ニッチがモンドが死ぬこと、ロストワールドが無くなること(テクノロジーへの過依存過信頼か)、全てがフラットに、点に、量に換算されること。可能性がゼロでなくなって(質から)、可能になること(量)。ログがあらゆる条件に照らして死滅するまで、我々は不死であること。完全にたがが外れた最も広い意味での「コミュニケーション」、可能性。重ねて楽観でないのは、我々がやはり有限であることであって、そしてそれは際立っている。だからかしこくないといけない。新しい倫理。甘美のうちに死ぬ意味、無為の意味が変わる。
という原点原則の再確認。