群馬-兵庫-東京-大阪2 下書き保存をアップしてしまいました

アクシデントです。
 
ナガモトさんの展示「ordinary days」を拝見しました。

震災後、大仰な言葉が並んでる現実を見て、表現をさりげなく行えないかなとも考えました。

ordinary daysというタイトルについて | 東毛のグループ展「POPWORKS」ポップワークス

ナガモトさんは変わらず精力的に活動されてる。すごいな。ウェブブラウザで拝見する絵と、実際目の前に絵を見るのと、今思えば、それら両者の印象に大きな違いがなかったかもしれない。何となく不思議に思われる。まず単純に媒体の経験の違いがあるはずだから。
ordinary=普段、普通について何か書こうと思ったけれど、書けない・・・*1

*1:わが身を振り返るに、震災以降、言葉が無くなってしまった、とやはりずっと思ってる。ともすれば、外に現れる行為行動は変わらないかもしれない。でもどのように振舞ってみてもただじっとりとうつろにみえてしまうものがあって、そのような内省の道筋はもう立派な強迫のようであるから笑える話でない。自分はこのタイトルをつけた時何を考えていたのか当然のようにすっかり忘れてしまっている。何も考えていなかったというだけのことだろうか。そもそも「日常」「生活」「毎日」「普通」「当たり前」といった概念が何を指していてどう共有されていたのか、され得たのか。そして今それらの言葉は何を指しているのだろう。あるいは何かを指していた、という形でしか、過去形でしか認識できない物事なのだろうか。以前の「当たり前」への郷愁でもなく、回帰するでもなく、忘れていくにしても、悲しむにしても、特にアイデアがない。と一通り書くと、とてもネガティブな印象があり、そしてその想念はやはりずっと3月から奥底で変わってなくて、ではそれは一つ「人間」の態度としてどうなのだろう、と問うてみても、どうも薄ら寒い。そんなことを言い出せば誰も心でそうなのだということを実は誰も慰めにできないのではないか。いや、言葉が無いというのは、責任ある言動、というか言動の責任を負いたくない、ということ、それだけなのかもしれない。わたしは結果的に暗黙のうちに語らないという形でそれを全て震災のせいにするだろう。何で脚注にこう長々書くのか、残しておきたいので残す。言葉は心のようなものを如何様にも駆動させるので怖い