エレホン

武さんの
芸術労働者宣言/武盾一郎

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古く新しい問題。芸術も労働も。接続が難しいのは、ひとまずどちらも自律したもの(何なら実体化体系化したもの)として認められうるからかな。自律なんてのはそれこそアナクロでしかないかしら?わからん。ともあれ、両者概念化して考えていくにどの方法をとるか、と、気宇壮大だとしても。
芸術のナルシシズムは、芸術家の死であるいは作品の死で一つ極点を見せる、ってのも古いだろうか。それは「月と6ペンス」に読まれることだ。どこまでもほのかな憧れではある。
わたしは、大きな物語とやらが無くなったという仮定を受け入れて、じゃあ自分の個人的な物語を(物語としては「訳せない」かも)、寄る辺ない脆弱なそれとして、形而上的(学ではないです)な価値論を打ち立てるのを一つの可能性だと考えているものだが、返す返すもそれは独善、自己満足でしかないと思う。卑下もどうでもいいが。ポストモダンでは強迫的に何かしら言い訳させられる気持ちになる。ビックリポストモダンの幽霊や妄想に憑かれてる(エクスキューズ)。責任転嫁かしら。
翻るにその形而上的価値は「(科学)技術」に極めて多くを依存している。記録の複製のテクノロジー、通信のテクノロジーです。今自己言及してる。で、それら諸技術にも同じように自律的な価値の領域があって・・・。脱線すると、ログの不死性−わたしという人間の何がしかの不死を謳うことになるかもしれない。不死を直接望んでるわけじゃない。でも楽観的にはちょっと安楽な気分だ。改変も書き換えも更新も可なログであるが。更には、ログで不死になった人間の可能は、究極は70億が端末でインターネットすることアクセスすることに関係してくるだろうけど、何というか、例えば、民主化などがテーマではなくて、ただの(芸術)作品の可能性、その自己弁護みたいな話。他人事みたいにここまで読み返したら夢想だな。まあ何ならちょっとした喜びということだけど。

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さてもさても、自律自律というが「公共性」という概念というか理念というか、が上記諸概念をじっと見てる。あるいはそれらの諸契機となりうる。あるいは今やそれらは分けては考えられない。「公共性」という概念理念は少なからず実践的だろうし現実的だろうし、自体としてもアクチュアリティある風、それにまつわる現行の議論盛んな風に見える。
道徳も倫理もイデオロギーも思想も主義も本質も大きなそれらは爆発四散して、それ以降・・・というような話としての「公共」、という風に大雑把にわたしは認識しようとしてる。不勉強で大分飛躍もある。
そうだ、「公共」で、芸術や労働といえば、アレントさんの「labor,work,action」と強引に。「人間の条件」途中までしか読んでない・・・。話としては、ギリシアなどの公共圏が近代では逆転して現代では云々というところが筋なんだろうか。

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

ちょっとずれて、勤労イデオロギーについては、これ面白い。これも途中までしか読んでなくて、結論があるのかあるならどうなのか、勤勉と怠惰の関係の逆説性を記述してたりする。

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あとピンポイントに労働者の位階についてもまた難しいなあ。正規非正規とか。自分で自身をマネジメントしなければ誰もしてくれないというざっくりした意味では、全員経営者じゃないかと一般化できるけど、その言い方ではあまり何も提出できないのかしら。雇用については保守的な反動を感じるところもあって、安定は当然欲しいし、それと冒険的なラディカルな起業家精神などについてはぐむむと唸るだけ。慣習、風土ってポイントから見てみたり。競争社会の殺伐といえばそりゃそうだし。
自分は芸術家ではないから(というのも言い訳じみるが少なくとも自称はできない。言葉の使用の問題)気が楽なところがある。音楽と「ビジネス」については時々考える。自分のできることは何だろうか。そうかテクノロジーで安心してるんだわ。これは何か違うね。よくない気がする。