オプオプオプ

タレルのオプアート?見てきた。
人間の生理、視覚を作品自体に組み込んでて、なので、大雑把に「身体」テーマに括られるのかな、と思ったけど。
戻るべき原始の「身体」なんてあるとはいえないし、そんなこと誰も言いやしないか。作品を通して、新しく組み込まれ作られながらも、ありありと元々あったと想定される、普段は知らない「身体」を意識させられる、ぐらいの言い方がしっくりくる。そもそもが「身体」って広い。いや自分はその単語いつもぼんやり使ってしまう。
「対象−視覚−生理−(身体)」≒作品、というような。ニアリーイコールって便利だな。
あと、モダンアートの鑑賞の「距離」について。距離それ自体がテーマの作品もある。距離を無視できる作品もある。メッセージに特化したそれは特にそうだろうけど(皮相では、距離変わってもメッセージの内容は変わらない)、あとはどうですか。美術館や肉眼で見なくても、あるいは極端には媒体が対象が何でも、「意味」は変わらない。広島の空に「ピカッ」と飛行機雲だっけで描く「意味」の一定。逆に、その固有の場所でないと「体験」できない作品は、前述のタレルさんか。距離の絶対化。作品に包み込まれる。
仮に、美術館で作品を鑑賞する、人が誰かの絵を見る、そういう前提、従来のシステムとか制度を相対化したものを「モダン(アート)」である、とする。
モネの絵を見てて思った。物理的に視線の位置・距離が変わると「意味」が変わる。50cmの至近で絵の一角をまじまじ見つめること、同じ風に一角また一角と一つの絵をうろうろすること。あるいは、ばっと絵から離れて全体を眺めること。
その点モネの厳密な意味での技術スタイルが特定の意義を持つのかもしれない。近づいたらただの点になる。離れたらどうか。何か具体物のイメージに見えたりする。「作者」がいてその「作り方」がある、という側面。
その仮定から言えばモネさんも随分モダンかね。じゃあモダンじゃないのってどんなのなの。写実的な作品?宗教画?古代壁画?あるいは、それは作品の属性でなく、鑑賞の属性なのか。