ジャーナル

極端だけど「世界の原理、価値、大事なもの、それに関する情報が相対的にであれ統一される、そのようなメカニズムはあるか」。
・限界的な状況における情報選択
地球の直近のカタストロフや、交換経済の停止などとなると、ほぼみんなその情報を欲しがる。あるいはそれでも日課の釣りのために天気予報を大事とする人がいるかも、または祈るために情報を遮断しようとする人がいるかも。だけど大多数が一時にそれに関する情報を欲するだろう。
・「欲しい」情報の序列を機械的民主化するグーグリズム。
生命の生死という限界的な価値についても、アテンションの序列が働くことだろう。アテンション高いのは、その情報の行動に関する効用からかもしれない、あるいはつっこみがいがある情報だからかもしれない。ただ、どちらであれ、重要「だから」みなが注目するというような因果説明よりは、みなが注目していて、そしてそれは蓋然的に重要だ、という記述の方がしっくりはくる。
時は急を要する、限界状況なら、という仮定が、情報選択に関する議論一般に質的な相違を与えるかも。極端過ぎて「量」の問題でなくなる、他のもうちょっと日常的な情報についてなら、「量」の問題としておさまり議論を条件づけられる?
・行動するにインプット、情報が多い、極端には価値の相矛盾する情報があったりすると、アウトプットたる行動はどうなるか。動けない、というのは直感的だ。行動心理、認知心理の話かしら。
過激なデマやプロパガンダは対して正負の行動に連なりやすい。デマがプロパガンダがそれらである条件は一つ人々の行動を制御せんとするところにあるだろう。時間経つに、結果的に、反省するに、デマだったプロパガンダだったと、判断できることはある、可能性の問題。

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「情報の価値化」自体が情報リテラシーにつきまとう問題なら、リテラシー教育は根拠がいつもさびしい。何故ならリテラシーは一つの価値以上のものでも以下のものでもないから。前提とされる「より自明な」価値、理念は何か?目的的な懐疑、方法的な懐疑。