自分はケータイパワーをうまく見積もれないなあ。同時にPC−インターネットのパワーを過信している節があります。ケータイのあの小型で、インアウトの増強、閲覧ウィンドウではその視認性、入力もキーボードライクなデバイスができて、という風な未来像。これは結局非ケータイの発想ぽいな。PCが縮小してケータイではない、というか、ハードと相即し花開いた文化との絡み合いがそこにあるなら、きちんとした互換性はない?これすらもやはりケータイに関して見誤ってそうな。

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個人の信用を担保する(それだけじゃないけれど)、アイデンティファイ≒ID、ハンドルネーム。ドメインの標識より、ID検索の方がパワフルだったり。その固有のIDでレーベルみたいになっている個人はもう存在してますよね。ここでのレーベルとは価値の創出の拠点というような恣意的な意味ですが(「個人が興行師」)。無論、島宇宙銀河団が標準形式なら、別の銀河ではそのID無効ですよ、という事態も当然ありうる。島宇宙同士は感知しあいにくい。
きわどい話、というのは人間のコミュニケーションの機微がそこではらまれるからなのですけれども、IDに自意識が見えると、ちょっと萎えるタイプのコミュニケーションがある。コミュニケーションは多層的なので、ある一層でどうこうは言えないにしても、やはり重い意味があるように感じられる。どうかしら。
前後した。ID化の話です。IDが価値を持つ、権威的(悪い意味でない)になる、ということ。ID化にまつわるコミュニケーション論がある。ネットでどのような実体であるか。どのような個人なのか。ネットでない、普通のコミュニケーションがあるとして、あくまでそれを踏襲するものである個人、ハンドルネーム。逆に、ネットでしかありえないタイプのコミュニケーション、そこでの個体認識番号としてのID、ハンドル。コミュニケーションの形式自体も消費されていくのは、ウェブサービスがどんどん現れ消えて、形式的にそれに則ったコミュニケーションが同じようにどんどん現れ消えることから、いえるかなあ。ただ、どんなサービスが現れても、あるIDがそれらを横断的に串刺しするのをしばしば見ているし。

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人間コンテンツで言われるのは、あっさりいうに、道徳的にそれはどうかということ、つまり人間をコンテンツ扱いするなんてひどい!ってことと、それとはまったく逆に、わたしの人生コンテンツとして売るわ売っちゃうわ、どう皆さん楽しんでください!というような積極性、そんな二極をひとまず想像します。人の人生をおもちゃにしやがってムカー、と、真剣におもちゃになります(何なのあなた真剣じゃないの、わたしは真剣よ、おもちゃになって当然でしょ)、の二極。おもちゃという言い方は語弊があるかな。ともあれ、だとすると、どんな人であれこの二極間でのどこかのポイントをきっととるのじゃなかろうか。ただ前者のそれも極端な形が、誰にもコントロールしきれないまま、たくさんの人間の目に触れる、話題になる、というような事案があったり。少なくとも個人にコントロールできる範疇は知れてて、いつも誰かの都合よくいくとは思われないし、インターネットが一つの道具なら、それによって誰かの人生が少しうまくいくこともあれば、少しだめになることもある、ってのは淡白すぎるとしても。いやいや、そんな甘い話ではないです、もっとシリアスですよ、というご意見は受け付けたいと思います。

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ID化の話と、人間コンテンツの話は関連してくるだろう、けれど、むずかしいな。