ついったーとはてなダイアリー、とか、世界の写しとしてのマインドマップとか

ついったーで単発的な思いつきを書き散らす。単発であれど、時間的に連続してれば、大体雑駁だけども想念において、あるいはその思考対象において共通してるものがあるので、それらをうまく組み合わせることで、エントリにできる時がある。

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これって結構自分の思考パターンの雛形ぽい、といっても大層でなく、個々の述語判断という形式の記述(内容は推断、直観、総合、分析とか)を、どう体系付けるか、階層付けるか、という作業。レトリック、表現についてはひとまず度外視してるけど(そして実にそれらが大事に思ったりもするのだけど)。

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マインドマップをある程度のスパンで確認、更新、修正すること。マインドマップは、自分と世界との関わり方を表示するとして、その性質は、なかんずく整理され方向付けられた己の意志、世界に如何に関係するか、世界を如何に変形するか、などといった諸々のあらわれ、と考えられる。
世界への根本テーマがあるとマッピングは一つ筋が通るのかな。それがただの便宜的方法なら本末転倒という気がしないでもないが。根本テーマがないならないでマッピングできないわけではないから。とにかく、自分にとっては騙し騙しだとしてもいつからかそれがやはり「音楽」であって、そしてそれとしてある程度一貫しているのだけど(といってもそのコンセプト自体にブレがないわけではない)、控えめに表現しても、そのテーマはそれ自体では豊かにならない。それが自分の音楽に関わることの限界であるかどうかなんてのはまあ別にどうでもいい(というと自分が大事にしている格好付け理念的態度には反するけれど)。結局自分の世界認識、それは少なからず自分の関心が色濃く反映されてるものであるのだとしても、それがその根本テーマに密接に関わってくるわけです。その世界認識の内容は、世界の構成物の関係論で、形而上的な性格を持ってる。音楽のことを考えるなら非音楽、音楽以外のことを考えないといけないのじゃないのか、みたいな話。いや、いけないというと語弊がある、音楽=非音楽みたいな恣意的な等式で表現したいところの関係です。まあ、というところで、認識というよりはもそっとやわらかく信念などというほうが無難だろう。加えるに、また別の思想としての「無駄なものは無い」ってのとその認識は呼応してる。それらの根拠は、自己の一回性とか、逆説的直観とか、あと存在のエコノミーとか、色々ありそうで、いつか勝手にまとめたい。
で、そういう態度って、多分、何でも欲しい欲張り人間と断罪されてしかるべきだろうな、とも思う。モラトリアムとか、何にもならない人間(恐ろしい贅沢)とか。結局何もなさない人間とかね。これはイデオロギー的な見解ですねーなんていってみても、開き直りにも回避にもならないだろう。ただ、生きる指針としては、楽観的ではある。肩肘力抜けてる。だから何だ、という話でもある。

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世界の関係は社会の関係でもある。ぼくの指針が一般的などとは夢にも思わないし、シンプルに比較できることでないにしても、自分より境遇の辛い人間がいることを知っている。想像できる。ぼくはそういった諸々をあくまで己の糧にするだけだ。