どうも僕はシヴイさんをみだりにディスってしまったらしい。いや実際ディスった、限りなく曖昧にそこはかとなくためつすがめつディスったのですが、馴れ合いの寸劇の範疇だとたかを括っておったフシもあります。たんぽぽさんにフォローして頂いたと勝手に考えましたけれども、どうもフライングで人のオチを横取りする傾向が僕にはある。でもそれは僕のせいじゃありません、と開き直るとさわやかな気持ちになって、ララと唄いだしたくなりました。エロ火さんのオチを、星野さんのオチを、過去に横取りしたことがあります。けれどそれは厳密に言えば、横取りではありませんし、ただの加害意識過剰だったらいいのになあ、と思うことでやはりさわやかな気持ちになりました。さわやかですまん。
僕は元々馴れ馴れしい人間で同時に人見知りでもあります。これはレトリックではありません。ネットとリアルの僕はまったく同じ人間ですが、その現われとしてはまったく異なるかもしれない。これもレトリックではありません。レトリックではありません、と発言することで、レトリックに責任をおっ被せている気分になりましたが、これは勿論レトリックです。

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馴れ合いという概念。概念生成のメカニズムは一般的にそれ自体で興味深いものがあるけれど、ことネット言説におけるそれに関して言えば、とにかくネガティブな心情に起因しているものが多いのではないかという印象を持っている。ネガティブが目立つ、そのインパクトが強い。例えば単語としては「村」「エゴサーチ」など、先の「馴れ合い」も含めてやっと3つですが、他にもあるだろう。現行の社会情勢のヒステリー的な様相と幾らも呼応するかのように、これら概念はその生成に伴って、ヒステリックな色合いを帯びる。ところで、ネット営為はコストもリスクもリアル営為と異なって低く見積もられ、それ故一般に過剰的であることをその特質とする。であれば、ネガ/ポジの性質をひとまず置くとしても、概念の生成、流通速度はそれら過剰性により、未曾有の加速をみることになるのではないか。これはネットというものを、そしてその効用を過大視してる風にとられるかもしれないし、実際そうなのだろうけれど、いつまでも過大視であるか、そこにとどまりうるかどうかははっきり怪しい。翻ってネガ/ポジはどうか?きっとネットは遠心分離機みたいになって、それらを完全に断ち引きちぎり、2極としてしまう。ヒステリックという意味ではどちらも同じようなものかもしれない。ネガとポジの真ん中がない。概念の加速、過剰の果ては?
ネットはリアルであり、リアルはネットである。相互のフィードバック、還流、循環などの関係。2項的な認識はどこにたってのものか。何を前提としているか。リアルはネットを馬鹿にできないし、逆もまたしかりだろう。でも、2極化はそれを見逃してくれるだろうか。多様性、相対性は別の軸にあるのか。それともやはり見誤りの産物であるところの表層的なものであったのか。
マジックワードとしての「かわいい」と「キモい」は、思考停止的だし、ディスコミュニケートな一面を持つ。そういう意味で双生児のようだ。これはその程度はどうあれメタ的視線による分析だ。コミュニケーションに対するメタ的な態度は、マジ/ネタなどのコミュニケーション分析ツールを許容し、何より、コミュニケーションとしての自己をも対象的に、そして無限増殖的にメタ化する。メタ化する精神自体はサバイブの産物であり、自体がサバイブでもあり、その点別段めずらしくもないだろうが、その操作のスピードはどのように変容しているのか。メタ化、そのスピードと概念化、概念生成の関連性。コミュニケーション自体のスピードが加速度的にあがるとすればそれは、インターネットという技術とそれを走破する人間精神共にあり、二つとしてなるところの過剰性にこそよるだろう。そして、そこにおいて、狂ったように喋り続けるか、まったく喋らず黙るか。かつてあったと思われる「あいまい」「ちょうどいい」「ほどほど」というものが軒並み破砕されるのではないか。そういう意味では「空気」という概念、それに関する言説はとても反動的だったが、その根ざすところが、そういったかつてあったところの「加減」みたいなものだとすると、結局のところヒステリックに2極の立場を選ばざるを得なくなってしまう。
いくつかのキーワードが有機的に絡み合っている。精神はチャレンジしつづけている。