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今日はやぐやぐの誕生日だ。25になる。彼女が1983年の今日生まれだからだ。最近はパグのような顔をしている。昔のやぐやぐに戻ったかのような、少しぽっちゃり。といってもその昔のぽっちゃりやぐは写真などでしか確認することができない。ぽっちゃりやぐを僕はリアルタイムで知らなかったということです。その上で、ぽっちゃりでも何でも状態によって変わらないのが、にまーっと微笑む時の顔で、それはずっと今でも彼女に一貫して確認できるものだ。本当に嬉しそうに微笑む。微笑んでいる時は笑い声が出ない。一般的なやぐのイメージは明るい高い笑い声で、ともすればうるさい、かしましい、などといったイメージではないかと思う。でもそれらイメージは表面的なものでしかなく、実は、哀しみとか憂鬱、寂寞などおよそ対極にあるような言い知れぬネガティブを小さい身体の奥底にたたえているように見ている。極稀に彼女は現実に焦点を合わせないで、それらのものを見つめるような素振りをする。これは僕の誤解で狂信で妄想で真実だ。可哀想だた惚れたてことよ。うるさい矢口と静かな矢口。
僕はハロメンに今までに2度手紙を書いた。一人がやぐでもう一人はよすぃこだ。それらはファンレターではなかった。といって恋文ではないし、何ともいえない普通の手紙。それは形式上からもコミュニケーションなどではなく、一方的な押し付けだった。普通の?人間との距離もわからないのに、アイドルとの距離なんてわかるはずはない。コミュニケーションは相互理解的という幻想においてまずロマンチックだが、一方切実なのは、人は自分が喋りながら同時に相手の言うことを聞く事はできないことを、キャッチボールなどの喩えでごまかす、ごまかさざるを得ないということ。これはとても当たり前の事態なのかもしれないけれど、誰かと通じる時は通じるし、通じない時は通じない、この間の断絶と、コミュニケーション成立一般に対する信憑−不信はまったく別物であり、結局のところ何となく喋り続けていて、その結果への斟酌、またはそこにさびしさや、忘却や、不安、退屈などがあってもなくても、その瞬間瞬間ではどちらでも構わない、構いようがない。言葉や手紙などコミュニケートする手段としての表現がボールのようなものである、というよりは、何となくでも何でも、まさに表現する「その人自身」こそがボールであるというイメージ。それが、ハイデガーの「言葉は存在の家である」ということを逆説的に示しているのではないか。同時に存在し同時に言葉を使うこと。「ある」ということの後ろ暗さ、もっといってレヴィナスの「ある」の不気味さは、決して置いてきぼりにできない「ある」、「ある」ことのどうしようもなく「ある」、その「ある」性で、ハイデガーのそれとはまったく異質な印象だが、論理的≒歴史的≒哲学学史的にいえばどうなのだろう。バタイユを経由すれば、フロイトのリビドーを「ある」ことと結びつけることが可能かもしれない。存在の快楽。

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いつも以上にここに何を書いていいのかわからない。ただ何となく書いている。