ネットコミュニケーションについて考える前に。
 
僕は、ネット−ウェブにあるものに対する肯定感を自分の根本に持てているように思う。今までに全く知らなかったことがこんなにいっぱいある、未知の知識、問題意識を持っている人がこんなにいっぱいいる、同様にぼくがわずかながらでもすでに知っていたことに対して、まったく新しい光を投げかけて見事に刷新してくれるそんな人やものがたくさんたくさん。たくさんの考え方、感情、気持ち、概念、理念、便宜、生活、表現方法、表現されたものもの・・・きっとまだまだ知らない事が無限にあるだろう。そしてそれは素敵なことであると根本的に肯定できる。
反面、ウェブとつきあうまでに培ってきた価値観、ウェブとつきあいだして以降、絶え間ない動揺の中育てられた価値観に照らしてみて、これはつまらないなとか、これはおかしいとか感じる事、憤る事、疑心暗鬼になったり、ネガティブな精神状態に陥る事も多々ある。そういうのはやはり鬱陶しいし、可能な限りで避けていきたい。いずれ己の血肉になるとしても、やはり。
ネットとリアルという対項図、ちょっとした二元論は、わりと常識的に日常的に語られているように思われる。ネットとリアルの差異は技術的≒唯物的にはある一点で確実に有意だ。つまりウェブ上にデジタルデータとしてあるかないか、その違いが決定的である、ということ(この考えは素朴な信憑の範疇にあるだろうか?)。でも、結局のところネットだってリアルである。この場合「リアル」を無反省に前提とすることは難しい。「リアル」は「現実」だったり「日常」だったりそれらの存在に対する関心、感覚、あるいは「実在」「実在感」「存在」「存在感」といったような概念として、なかなかぼんやりであるとしても、大方に共有想定されているのではないか、と考えるのだけれど、どうなのだろうか。そういった「リアル」はそれこそ、ネット−ウェブが今のように巨体となる以前のいつからともなく、流行り文句になって陳腐を振りまき振りまき磨り減っていったり、方や、切実な病識としてその欠落を恐れられたり、概ね現代人の意識のある側面、それを説明する概念としてそれなりに定着してきたものだという記憶がある。脇道を重ねるが、だとすると、「ネット人格」もさしあたりは特殊なものでなく、リアルな人格の一面以上のものでも以下のものでもないということになるだろう。順を追うと、リアルな人格といっても、当の人格に関して例えば、精神疾患としての多重人格というものがあり、また別には、大酒飲んで人格が変わる人、車運転すると人格が変わる人、裏表があるように見える人、八方美人なんかもそうかもしれないが、対象としての差はあれども、たくさんの事例があるわけで。要は、本来的にある程度多面的な性質を持つ、あるいはそういう多面性の統合的な機能、包括こそが人格である、自我である、ということが心理学的な規定として可能で保証されることで、やっと「リアル」な人格の意味も同様に保証されるものであるといえる。勿論ネット人格は、それがリアルのバランス、あるいはウェブのバランス、安定性などを実質的に脅かすと考えられる限りで、リアルに無視できない有意味な問題となりうるだろう。
ともあれ、ネットを通じて、リアルにおいてネガティブになるということは、どうにも辛いことだ、と重ねる。それでも、そういうことを幾度経験したとしても、僕はやはり根本的にネット−ウェブの事象を肯定していく、と思う。これはひょっとしたら、ただただもうこれまでものすごく幸福なネット生活を送ってきたことによる、そのことだけに尽きるのかもしれない。ただ運がよかっただけ。だって、どんなに細心の注意を払ってネットを活用しても、想像もできない不運に見舞われることはありうる、と想像するから。