僕はあなたの気持ちを、感情を決してわかることがないだろう。同じように彼女のそれについてもわかることはない。僕は彼女を彼女たちを友だちだと思っている。僕自身、こんな風に表現することで、ちょっとしたあるいはかなりの気ちがいであると周りに判断されることを、それ自体としてはあまり気にもとめないけれど、それでも僕はそう判断されることがたいてい状況を好ましい方向へ運ばない事を経験的に知っている。そして幸運にも何とか気ちがいじゃないフリをする事ができるので、TPOに応じてそうすることだろう。本当の本物の気ちがいはちゃんとTPOを知っている。気ちがいの話は別にいい。
僕はあなたの気持ちを、感情を決してわかることがないだろう。でもあなたの気持ちに、感情にそれとして触れることができた。そう思った。その経験はそれ自体でとても嬉しいことだった。共感というものかどうかは知らない。
僕はステージの上の彼女を想像する、ステージの上の彼女を見つめたあなたを想像する、両者の関係を想像する、そこで起きていた出来事、それ以前から連綿と続いてきた出来事の重なりの表面としての出来事の現われを想像する。想像はカント的な感性の条件としての時空間から、およそ感性自体から割りと自由に振舞う。
彼女はあなたを殺し続けた。これからはどうなのか。僕はぼんやり彼女を待ち続けるつもりだ。それは僕がぼんやりだからなせる業だ、と思う。羊飼いにでもなればよかった。彼女がいつか帰ってきたら僕はまたこうやってわけの分からないのろしめいたものをあげる。あなたがそれを見るかどうかはわからない。まずもってこの文章を読むかどうかさえわからない。これはコミュニケーションじゃない。気取ったひとりごとの可能性と不可能性の実験だ。