引き続きネットコミュニケーションについて。
 
ululunさんの「ウェブアート」

ウエブサービスを使おうとするならば、ウエブが表現の場であると認識し、コミュニケーションはあくまで従属的な存在であると考えるのはどうだろう。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20071029/1193628043

すがすがしくていい提示だなあ、って思った。自分がネットで何かしらし始めた、最初の頃の気分がこうだったような気もする。記憶違いかも。コミュニケーションなんて、後からついてくるぜ、という開き直りではないが、元気だった。そもそも、何のためのネットかという、名分が無いところに、何かしら共有される名文をこしらえていくしかないと考えてみると。娯楽?日ごろの鬱憤のはけ口?議論のための議論する場所?リアルに対するネットパワー、ブログパワー?どうしようもなく誰かと繋がりたい欲求?どういう動機、目的、あるいは大義名分でネットする?ウェブパフォーマンスする?
そんな中、コミュニケーションは冷酷で勝手にどうしようもなく自生自存するものであると、想定してみる。基本的にコントロールできない。力の極端なアンバランスのもとでは、別かもだが、そういうのは一般にコミュニケーションと呼ばれないだろう。ネットコミュニケーションが投げかけるのは、リアルコミュニケーションも実はそれほど自明的じゃないよ、という無邪気な懐疑。どこでだって、ぬるま湯のようなコミュニケーションもあれば、ストレンジャーと取っ組み合いということもある。が、どちらがどうというのでもない。ただ後者の方が確実にしんどい。しんどいから、解決した時に、充実するということはあるだろう。
リアルは全人格的だということ、とにかく情報が一番多いということ(処理の問題は別にして)で、コミュニケーションのモデルとしてはなるほど優等というのもひとまず説得力がある。S/Nとか。ネットーウェブは、文字という一元、そこに音、動画映像が加わったりした。これから更に多元性を増すことになるのどうか、どちらにしても、それはコミュニケーションの為、ただそれだけの為というのではないように感じる。おじいおばあが遠方の孫とリアルタイムムービーでコミュニケートする、そして喜ぶ事はほほえましいし、よかったなあと思う。便利だ。でもそれは、おじいおばあと孫という関係がそもそもあるからこその便利だ、と。うんやはり、いたずらな懐疑のための懐疑、疑心暗鬼のためのそれを怖がらず、ずぶずぶ陥らず、ということに気をつけることは難しいな。
 

そういえばブログを書き始めて多くのブロガーの文章を読み交流するようになった頃、最初に強く感じた印象は、「皆寂しいのだな」というものだった。

はてなグループ

誰かとかすかに繋がったりする。何だろう、引っかかるとか、言えば、街中の人ごみで誰かを偶然見かける、ということが似てるだろうか。でもその場合その誰かはあくまで「誰か」で、すぐ記憶から外れていってしまう。一方、僕らはめいめいウェブでたくさんたくさんブイやら、アドバルーンやらをあげていて、それをたくさんの誰かが見かけて、遠くなのにこんがらがっちゃったりして。街中の人ごみではおよそありえ無いことだ。孤独な人々の行きかいに、ウェブは歯止めをかけ、新しく柔らかくひきさく、両義性。孤独とうまく付き合う方法、孤独とうまく付き合ってる人と付き合う方法。
 
誰も誰もを傷つけたくない、加害者になりたくない、同時に被害者にも、って言ってのけるのは大分しんどい、無理がある時もある。どんなに気をつけても、意図せざる暴力としてのコミュニケーションは発生しうる。自我の防御力を高めること、何かしようとしているどこかの誰かにグッドラックを言うことだけができることか。
 
センチメンタルなトーンになった。もうちょっと考えます。