半径5メートル、高さ5フィート、秒速5センチメートル - REV's blog
「音楽なんてただの空気の振動だ」「価値の言説は差異に過ぎない」「人間は消尽するだけの存在」などと、どこかにゼロの地点を置いて、そこから考えていくことでどこか安らぎます。僕は安らぎたいだけなのかなあ。ある種の生活の実践、知恵。でも、そのままどこまでも現実とすり合わせしない、ずっと平行でいきたいというわけではないですが。でも事実(例えば社会的な規範から規定される事実)としては平行なのかも、と考えると、ちょっと鬱屈する。鬱屈してしまいながら、それでもやっぱりすぐひらきなおっちゃう、「人間は所詮正当化していくだけの存在です」なんてつぶやいて。個を飛躍して一般化する、類的なものとする鈍感さがなせる業だろうか。鈍感とタフの関係もいずれ考えてみたい。
例えば、音楽は空気の振動で、それが聴覚細胞をどうにかこうにかして、電気信号になって、脳がどうにかこうにかするというようなプロセスの醸造の産物にすぎない、とこれは科学的な何かにその根拠を置いているようだが、特別客観性とか厳密さとか、何か絶対的な基準にしか拠ってはいけない、というのではなくて、勝手に(価値の)基準を絶対なものとして置いて(ここではたまたま科学的な知識めいたもの)、そこから、では何故そんな空気やら電気やらが、音楽的価値言説を産出していくのかしら?はてさてふむ、さてさてほほ、と、いくつのステップを踏んだら、それはどのように社会と世界と関係するのかしら?というところまでいけるか、と考えると勝手にへとへとになります。
thinkingインポテンツ。思惟インポ。かわいく響くな。鼓膜がインポになることはよくある。ところで、鼓膜にも音楽的処女膜があったら、俺のそれを破ったのは誰だろう、と広島焼きを食べ終えたいま考えるのだが、同じ文章中で主語を変えたら、僕→俺などにしたら駄目、と小学生時分先生にひどく言われたことをすぐ思い出して、もうどうでもよくなった。