ネットにおける行為の規範たる何か

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ネットでの何らかの行為(アクセスする、コピーする、ストリーキングを放映する)は、それが道徳的によくても悪くても、常識的であってもなくても、法的にセーフでもアウトでも、そのような従来の何らかの規範、観念の総体によってはひとまず「抑止すること」ができない。それら規範は何のためにあるのか?はまた別の大事な問題である。規範が規範であるにあたって、より根本の問題であるのかもしれない。ひとまずこういえる、規範はある任意の行為を正当化するし、禁じる。
何故抑止することができないか。大きくは、それは任意の行為の、ネットにおけるコストが極限的に低いものであるから。ネットでの行為はどんな人間がどのような状況でどんなことを為すにしても、情報処理、通信の技術、それら唯物の次元に一元的に還元されると考える。だとすると、原理的には、技術的な困難だけがその次元を規制しうる。
だから、ネットではどんな行為でも「してよい」ということを主張するのでは、勿論ない。よくもわるくもないし、よくもわるくもないということ自体にも関係が無いこと。これら原理的な次元での観念すら人間のネットにおける行為に、その規範に関知はしないということを言えるだけなのではないか。こういう技術一元論的な意見、考えは古びているかもしれないし、発展性があるかどうか。
その中で「プロトコル」は規範的な技術で技術的な規範であるようにみえて、なので存在として面白そう。だからレッシグさんのそれに関連する本を読みます。スリーストライク法はどうか。技術を通信から根っこから断ち切るという意味、その一点では、効果的であるだろう。例えば闇プロバイダのようなものが整う状況になれば、結局その技術的な解決も一時的で、ならば状況としてはいたちごっこであるだろうし、そういう歴史をリアルタイムで私たちは知っている。ある個人のデジタルの存在履歴を洗浄する技術などは瑣末なものになるかもしれない(技術開発に直接参与していないものの意見としては全く適当ではないが)。または、違法的な行為をすればするほど壊れやすいパソコンを売るとか、違法ネット行為を行うと、刺激臭が出るとか、狙撃されるとか、根源的な技術に「準ずる」「通ずる」行為に対するコストをひきあげていくと、違法行為は減少する、かもしれない。ここもいたちごっこだと思う。その点からも、法、規範の作り手と行政が、技術の作り手、巨大技術メーカーと手を結ぶとすごいことになるはず。この話は陰謀論(空想的であると実質的であるとを問わず)として連綿と展開されていそうだけど、お目にかかったことはない。
現実的には、あとは、ネット行為の主体たる人間の「内面」に規範を植えつけていくこと、それも長い時間をもってして、そのように教育しようとすることは有効で「ありうる」。そのコストとか費用対効果についてはわからない。ただただ、技術向上の過渡期においての、一時的な啓蒙(何たらジャパンだっけかはどこいった)はネット行為一般をコントロールすることはできない。ところで、それとは別に興味深いこととして、主に著作権関連で、新しい消費者像が熟成されている気配を感じる。つまり、ネット行為者が自らでネット行為の規範を打ち立てている。消費者の作り手に対する意識の変容。それは何の判断を経る事も無く手離しで押し付けられるネットマナーとは一線を画すようにみえる。これは特殊な商業、業界の込み入った状況が絡んでいて、なので敷衍できるかどうか、一般的なネットの状況へと広げられるかどうかはわからない。
人間の行為と、人間の自由、法律などの規範、は巨大な問題だ。そこにおいて、技術的なもの、唯物の次元は動かない、とすれば、考え方の方向を決めていけるのだろうか。少なくともそれらは決定的に無視することはできないはずだ。インターネットの技術倫理はそもそもあったのか、遅かったのか、見誤ったのか。考えたいこと知りたいこと話し合いたいことがたくさんある。