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晴れ着ブック
http://net.blt.tv/goods/helloproject_book.html
本屋さんで買いたかったな。

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写真の二重は、「撮ったときの光の関係」と「撮られたものを見てるときの光の関係」と考えてたし今もそうなのだけど。ぐらぐら。スキャンされた写真、デジタルデータになった写真はどう?どこまでも「写真(モノ)」=「媒体」と想定していることになるだろうか。
バルトちょろちょろ。バルトは「『写真』は何か目の前にあるものを指さすのであって、そうした純粋に指呼的な言語活動の域を脱することができない」という。だから「『写真」一般について」語れない。写真が直接対象、その何か「個物」を指さす、ということだろうか。一回性?

実際、ある特定の写真は、決してその指向対象(そこに写っているもの)から区別されない。少なくとも、ただちに区別されることはないし、またすべての人によって区別されるというわけではない(写真意外の映像なら、どんな種類の映像でも、その対象から区別される。写真以外の映像には、最初からそれぞれの本質規定に従って、対象を模写する固有のやり方が含まれているからである)。
「明るい部屋」p.10

一回性なら、どんな視覚のメディア装置だって、その「本質規定」、唯物的なテクノロジカルな「模写」では、一回的でしかない、のではないか、と思った。もとより「一回性」が難しい。バルトはそういうことを示しているのではない、のか。
動画は時間形式をそのままそのときのまま借りてる、といえるか。写真は大抵一瞬の光だ。人間の視覚システム、目では感知できない「光」のあり方。なので、時間形式がない。ただ動画にしても写真にしても、そのメディアを見るときだけは、時間にも空間にも関係せざるをえない。つまり、一枚の写真をじっと見たり、パッと見たりできる(ここにこの今の光が紛れ込む)。それから、フォーカスは一定でないし、その場所もそう。空間的であるという意味では「絵」と似ているのかしら。
→「写真」を見るという行為の変わり方