d

わたしたちは、少なくともわたしは、出会った、ということ。
安定した幸福を維持しようとしてる、そんな風に見える彼女の外からの闖入者を名乗って、おこがましい。文字にしてみたらわかった、とてもばかばかしいことだ。だって、実際的な関与などはほとんどどこにもないだろうし、結果に関しては杞憂もいいところだから。
時間に対する、心に対する、今のこれからのわたしという引き受け、倫理的な責任。個人の「法」。倫理の普遍性を、その要請を反転させること。
社会に規定される、社会にある通念、価値に翻弄される「感情」。恋愛という言葉を殊更強調する気はない。感情はわたしの内に外にあって、そういう状況事態であれば、それに同一性、一定した形式を求めることも、また懐古的なそれら感情に対するセンチメンタルにも、(それら自体には)という留保でひとまずごまかしながらも、価値を与えなくてよいと断じてみる。それらはわたしのこれからを「積極的に」牽引することはないだろう。何度となく繰り返すに、今とこれからに向かう、価値付け、価値の刷新はシビアだが、やらなければならない、やらざるをえないことなのだと思う。ニーチェの「生の価値」を遠くに透かしている。

                                              • -
                                              • -

比較のゲームと比較しないゲーム、後者は前者に回収される。後者は安穏としていたい。それが、開き直り、逃避だと分析され差異化されうるかもしれないということに、心中かかずらうのも鬱陶しいことだ。そうだけれども。
社会が分裂して複雑になっていけば、対応してステータスのピラミッドも破産する。そんなイメージ。局所のステータスの機能はあるだろう、としても。実態的ではないが実質的ではある社会的な価値の審級に対する構成員個々の意識が、例えば、社会のアーキテクチャ、市民的なそれにおいて、どのように反映されるのか、という問いに意味があるとすれば、前述二者のゲームは手放しで放棄できないのかもしれない。論の繋がりは模索してないけれど。

                                            • -
                                            • -

いずれ帰ってくるとりくんの置き土産
http://togetter.com/li/1817
柄谷「探求?」のウィトゲンシュタインクリプキのライン。ツイッターウェブテクノロジーがコミュニケーションを擬制するってのは一面で、唯物の側面。それはそれで有効。あと情報理論になるのかな。シグナルノイズ。情報の対応。それから「合意(のようにみえるものごと)」。で、ツイッターだけの話ではなく、一般化するに、いい意味でナイーブなおはなし、をとりくんは身をもって示してるように見えた。コミュニケーションの非対称性をコミュニケーションで解決できるのか?いや、この言い方も比喩的に過ぎない?
ちょっとずれる、「真偽」のはなし。またヴリグトさんの「論理分析哲学」タルスキの項を読んでる。ニーチェインパクトはニヒルであることを誘惑する。真偽が真理が生の価値によるものだとしてしまうと、たえなる相対化でいずれどこにもいけなくなるという想像に襲われる、運動のエネルギーを得られなくなる想像。真理の価値説は強い。対応説も合意説もやっつけてる(ようにみえうる)。倫理の問題に回収してもよいのだけど、結局同じことで脱力。それはともかく、「真偽」TorFの区分について、もやもやしてて、まあいえばずっと強迫されてるテーマだからしょうがない。約束としての「真偽」。色々ごっちゃにしてるなあ。