mumu

http://anond.hatelabo.jp/20090409233034
ひとまず一般的にできるかどうか、つまり「聖書」「西洋」などを抜いてみて、作品受容一般にどんな層、側面、目的がある?って考えてみる。作品理解でしょ、娯楽でしょ、大きく信仰のため、大きく教養のため、あと消費のための消費とかは?それから、誰かに紹介するための読書もある。皮肉なんかじゃない、作品が伝わっていくことのメカニズムというような。
作品をテクストとしてしまう。純粋なテクスト性のはなし。テクストの純粋はそれが可能かどうかってトートロジカルな問いにぶつかるだろう。テクストには量的にあたれる。文脈を文脈として切り離せる。すると、聖書だって西洋だってキリスト教だって別のテクストだ。ポストモダンチックな主体の読み、みたいなものの一側面なのかな。そういう考えの抜きがたさ、インパクトは、正統な研究、本当の理解、真実、真理を(いたずらに)相対化するところにあったのか、どうかはずっと問われてる。
自分の役割を規定してみる。これは上記一番最初の問いに対応させることができるだろう。学者、研究者としてのわたしの読み、娯楽消費者としてのわたしの読み、現代日本人としてのわたしの読み・・・などなど。で、わたしはドストエフスキーを読める?
そういう反省を大事に思える。反省は行為の契機になりうる。あるレイヤーからすると、わたしはドストエフスキーじゃないから理解できない、って言いうる。わたしはロシア人じゃない、19世紀にいない、エンドレス。当然これはドストエフスキーだけの話で無くなる。そこで思考停止しないとすると、どういう行為の可能性があるか。
知とは何か、と問うと大きすぎるので、知識、情報をどう体系化するか、とひとまず置き換える。聖書の知識はどこに位置するか、ドストエフスキー研究はどこに位置するか、もっと一般にある作品を読むということに関する反省はどこに位置するか。信仰、知識、感情、環境、人間の思考、作品の解釈などなどいろいろな契機が引っ張り合う。
ぼくは、知識や情報は量化すると無限になるから、量が質に変化するポイントを見極められたらいいな、と思う。キリスト教、聖書理解、ドストエフスキー研究という知識はそれ自体できっと途方も無く巨大でしょう。逆の視点で、ぼくは2000年代の日本人で、今までどんな本を読んできて、どういう知識を持ってて、どういう質的なポイントを内に契機として有してて、どんな考えがあって今どんな意識の状態で、などこれも頑張ったら無限のポイントに分析されうるのかもしれないけれど、ともあれそういった両者の統合をすることが読書という行為であるなら、結構いいバランスかも、って思う。これは比ゆ的な言い方に過ぎない。
ぼくはドストエフスキーを読む、どうやって読む、そこに何を読む、どんな理解をしたい、か。聖書理解、東欧19世紀ロシア理解、ドストエフスキー理解は特に知識情報として欲しくない。それらがあればあるほど別の理解が誘発されるかもしれないけれど、簡便な解説などの読者への一般的な便宜で事足ります。ただその上で、自分の問題意識と呼応する部分、引き受けられる部分を読むことはできるでしょう。ぼくは聖書をほとんど読んでいないです。新約の方をたまにちょろちょろ読む程度。聖書は不思議な内容だなって、あるいは素朴に意味不明、理解不能だったりする。そういう意味で、読み物として純粋に面白い。
というわけで、任意の作品に当たる上での自分の問題意識は何か?という別の問いに変換できるかな、と。