お昼メモ

私が私を私であるとみなすこと。この場合の私は意識、心、精神/身体など。ひとまず、間主観性や社会的規定などの外的規定性を置いておく。
I regard I(me,myself) as I(me,myself)みたいなことか。
シンプルな主客の構図に持っていかないこと。主体としての私が客体としての私を私とみなす。私が私を私とみなすには主体たる私に私を了解する何かがないとだめ、という理屈になる。だとすると、その了解がどんな内容のものであるのか、ということになる。
その了解は、直覚的な知、直観、直接的な知が根拠だろうか。ならば、そういう風に、もし私自体で即自的に私なのだったら、私は私を私とみなす、という論理は不必要である。なぜなら、主体たる私において私が充足しているという理屈になるから。では、私自体で私が私でないのだったら、それは何か?何によるのか?とは問いうる。
キェルケゴールの場合は、アンチヘーゲルという契機はひとまず、自己としての私という関係が当の私という関係に関係するところの関係である、としている、と筆者は理解した。関係というのは運動だけれど、ここでは自己反省、その意味での自意識であり、そういう自己反省という運動としての自己=私がその自己反省という運動としての自己=私に自己反省的な運動として関わる関係ということになる。すると、ここにおいて私は階層的な契機としてのポイントのような私であると分析されていることになる。けれど、あくまでキェルケゴールは、関係の関係性、関係が関係するところに力点を置いていると筆者は読んだ。つまり契機としての私は認めるにしても、それは関係の関係という回路の駅のようなものでしかない。更にキェルケゴールは、その関係に関係するところの関係たる私という自己に関係する、それも根本的にそのようであるところの「神」を措定する。この「神」が何であるかは筆者にはわからない。けれども、以上のような私というサーキットの根拠であると想定されるような「外部」的な何かであるとは、確認しうる。「神」のような人格的なもの?だけでなく、それは「世界」「自然」「環境」「運命」などなどということはできる。それぞれの意味はまったく異なりうるだろうけれど。

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私が私を私であると見なすのは何らかの要請である、とする。
カントはどうだろう。端的に方法としてのアプリオリズムかと考えてみる。つまり私という自己が私という自己であると超越論的(感性論的?)にそれをアプリオリなものとする綜合的判断の行使は、カントの体系の一契機として要請される、と。コギトエルゴスムは。フッサール現象学的心理学と超越論的現象学の関係は。
また、派生的に、私的言語が不可能ならシンプルな独我論独我論でなくなる、とか。

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私が私を私であるとみなすことは、平常あらゆる意味で問題にならない。自明性としてとりあげられさえもしないだろう。IDの要求なんかもひとまずは生活(技術)の方便。精神疾患としての多重人格や統合失調においてあらわれる「私」の神秘。
「意識は病気である」ということの意味。それの一側面として、私が私であるという同一性に対する懐疑。それ自体も結局病気として排除されうる存在なのか。