twitterでfollowしてた人が亡くなったと聞く。姪が生まれたという喜びや、プロポーズや入籍といった言葉がタイムラインに踊る。ずっと大切な友だちを亡くした人の隠れた哀しみをそれとなく推し量る。
それらに対して、元々どうすることもできはしない、現実的な次元での意図的意思的な関与の可能性は低いのだけれど、感情や心は勝手に反応するのだ。どうしようもなく伝わってしまうというコミュニケーションの一特質に、情報科学的な確率やS/Nは直接関係しない。それはつまり、いつでも意味としてクリティカルでありうるということだ。伝わることの怖さ。伝わってしまうことの。

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あせって切らなくてもいいよ。そういう志向のテクノロジーではあるけれど。のんびりゆるく繋がってれば何となく何とかなったりする。自我の防御力を高めることが、センシティビティの程度とトレードオフになりませんように。文字によるコミュニケーションの一元性というものがあるなら、そこでは意味の反省を許容しないことが条件的になるだろう。twitterは140字で完結する実装上そのような一元性を帯びてしまう?勿論アカウントによる時間軸の串刺しがあり、個体認識の一貫性と場としてのタイムラインがあるのだが。畢竟これは上記のクリティカルと関係している。

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「rescueはできても、saveはできない」ということを、村上春樹の主要な命題の一つとして私は受け取った。物理的な「rescue」は誰かが別の誰かに対して意識的にまた意図的になせるわざである(ありうる)けれど、「save」はそうではない。「save」は偶然(的)だし、意図や意思を超えるところに起きる。決定的には誰かを「save」することはできないという不能感。何が言いたいか、奇妙なパラドクスの提示をして更に進める。それは「天は自らを助くる者を助く」だ。これは精神論ではない。どんなに頑張っても努力してもあるいは最大限の合理性を発揮しても、どれだけかしこくて持っている力を十全に発揮することが可能であっても、根本的には我々は「save」に関わることが出来ないという、酷薄の論理、命題である。「私」ですら「私」を「save」することは決定的には出来ない、いわんや主語としての他人、目的語としての他人をや、ということである。天は単に呼び名なので、別の名前で呼んでもいい、それは我々に超越的な何かだ、としか言えない。「私」が「私」であるということの困難は、何らかの超越性による我々への非対称的な関与を示唆する。

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楽天的な僕ですら、「私」というサーキットを地獄に感じることがある。それは閉じたり開いたりしつづける回路だ。twitterをやり始めて確認できたことは僕が本当に楽天的であり、世界はそれぞれの形で苦悩に満ちているということだった。
アイデンティティという言葉の奥行きを失ってはならない。皮相的なアイデンティティが騙るものがある。「地獄とは他人のこと」でありながら、実に「私は地獄である」ことと極間で往還の関係だ。私は地獄である。少しばかり住みよい地獄があってもよいのではないかと思う。