ホーム・ドメインみたいなのがあると嬉しい時がある。個体認識のきっかけになるからかな。きっかけの大きいものの一つ。これは比喩としての螺旋階段理論で、1階違いだけど上から見たら同じポジション、というような。それこそウェブ初期にあったものの意味のパラダイム的な変質。
で、これはコミュニケーション志向な発想なんだろう。変わらないハンドルネームとかね。ものすごく逆説的なことで、ウェブサービスの、形式的な意味でのポップな増加が、同じ意味でのポップなコミュニケーションを許容しない、そんな風に見えてくる。極小点的な居酒屋であるところのウェブ世界が別の次元の展開を始めてるような。そういう場所では、コミュニケーションの発生が副次的であるということは難しいのか。それはやはり確かに一つの視点だし、お付き合いの仕方として強固だし。ともあれ、コミュニケーションって多義的多層的なんだということは言い続けても言い足りない。卵が先か鶏が先かの迷宮にともすれば「入りたがる」傾向があるし。言うなら、人間の限界って話かもしれない。あとウェブ営為、ネット営為、ここで営為すること自体の意味の変質も大きい。
ネットでばらけちゃう、島宇宙がばらけてポツポツ並存する、という事態。フィルタリングテクノロジーの面白いのは、脳内フィルタリングの可否、つまるところ大きく各自の脳というリテラシーの可能不可能を問題として掬い上げることができない悲鳴のように聞こえること。リテラシーって軟派じゃなくて、そのままサバイバルだから、技術的にいうなら、根本の教育の話からしなければならないはず。まあ誤魔化しとく方が都合のいいこともあるのかもしれないが。ところがこれはとにかく壮大な話。教育の非対称はあるし、教える側のリテラシーの問題はあるしで、てんやわんや。下手したら皆が皆レミングの行進になってもむべなるかな。倫理的な責任の概念持ち出すまでもなく、つけを返さなければならないのは己であるということ。