手紙とメモ

オルタさん、おださん、ちょっと待ってて!!
待ってて、と言っても、具体的な行動を促すのでは決してないのですけども
全然追いつけてない気分になったのでとりあえず叫びました。
 

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これはおおざっぱに「社会性」という話だろうか?
おおざっぱ過ぎる・・・か
 
<全ては正読である≒誤読しかない>
 
コミュニケーションは非対称だ。

約束、決まり、コードなどはいつも後からこじつけられる。
といった理屈より前に、僕は切実なコミュニケーション、それこそ己の生死に関わるようなそれを要求されることが今までになかった、だからこそ、とりあえずおおまかに一般的でないコミュニケーションに期待をしないというメンタリティを持っていたというところがある、と内省して思いつづけてきた。そういう面で僕は自分が何かを「作る」ということにまったく無責任である。この場合の「作る」は一般的でない領域にある(と少なくとも自分は考えている)。一般的でない、を説明するに、一般的である、をまず出すのは、間違いかもしれないが、やってみる。これは簡単だ。日常生活、日々の暮らしなどにおけるコミュニケーションがそれの代表である。それは挨拶だったり、世間話、ちょっとした口論だったりして、様々である。ともあれそれらは大きなブレが無い。死活的でない。社会的な規律だったりルール的なものに則っているのである。ところが、それらは逸脱をすることがある。それが一般的でない領域だとする。
一般的でない領域におけるコミュニケーションを具体的に説明するのは難しい。例えば、冤罪の証明はどうか?初めて冤罪を証明しようとした人がとろうとするコミュニケーションは、それに類する規範的な事柄がないから、まず何をするにしてもコストが高すぎるものであったと想像する。そしてきっとそんな想像を絶するものだっただろう。うむ、この例は極端でイメージが偏ってしまうものだ。僕の「作る」はこんなに偉大なことではないし、諸規範に対して大いに挑戦的であるというわけでもない。つまりそんなにコストもリスクも高くないのだ。前後するが、この場合のコミュニケーションの内実は「作る」-「受ける」である、と想定している。
なので、少なくとも「安心」というものに直接関わる「作る」ではない、と想像する。これは見誤りであるかもしれない。「パワーゲーム」の観点でいえば、不戦勝で不戦敗みたいなものかもしれない。わからない。単なる自己満足、オナニー、独りよがりであるという主張が無効にならざるをえないポイント。そこから、「安心」「パワーゲーム」その他もろもろを規定しなおす。これは形而上的な理念構築につながるだろう。ただただそんなに立派なものでない。