タンブラーだけの話じゃなく

ululunさんが書いてらっしゃたので。
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20080212/1202786275

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極論なのですけども、ウェブにあるデジタルデータへのアクセス可能性−操作可能性の前で、全ての規範は無効だとするのがまず考え方としてベターなんじゃないかと。著作権違反とか、道徳心とか、同情心とか、共感とか、著作者の心の痛みとかあるいは喜びとか、タンブラーのウェブ文化に対する寄与性の有無とか、ウェブ上の文物のあり方、その所有の形態についての保守的なまたはラディカルな見解、ウェブ成員によるそれらの共有の程度とか、これは無断リンク禁止とか、あれはOKとか、どれだけ言ってもどうしようもない、およそ普遍的な問題のように受け取られるのは、結局インターネットデジタルテクノロジーのレベルと、それら規範のレベルが端的に関係ないからだ、と。そういう唯物、技術のレベルに対して、規範的に一意で有意な振る舞いを期待するのは不可能で、それらを媒介にしている向こう側の誰か、それはどこか遠い国の人かもしれないし、隣人かもしれないし、誰でもいいのですが、それらが媒介することで、技術における規範的なコミュニケーション、規範のやりとりなどに対する懐疑が相対的に発生しうるのではないか。国による法律はある。道徳心の共有だって少なからずあるだろう。でもそれらが、まさに今ここで起こらんとしている任意のデジタルテクノロジーの振る舞いに直接的に関わる事は絶対にできない。
といっても完全なアナーキーを推奨したりするわけじゃなく(話として一貫するなら推奨にさえ意味がないわけですが)、適用範疇はともかくルールの合意形成の可能、つまりネットにおける新しい規範形成の可能、ひいてはより大きな公共性の確立やら何やらに対する期待だってありうるでしょう。クリエイティブコモンズフェアユースオープンソースコピーレフト、あるいはSNS、wikiなどのウェブサービスとしての形式、これら概念、思想はその内容からして一律に語ることはできないかもしれないけれど、ウェブの原初的な混沌に対するリアクションとして見るに、技術と相克する人間の英知の営為の可能性を提示している。
その上で、でも、まず、やはり最初から今まで有効であったところの規範に期待するのは難しい、とするほうが現実的であるのではないだろうか。ネットの世界は拡大していくし、その構成員においてもそうだ。狭くてクローズドで村的な空間ならともかくも、こう持続的に爆発的に拡張していくネット−ウェブの世界において、規範の有効性は同じように拡散していくのじゃないか。
目には目をではないですが、技術には技術を、というわけで、技術的に転載不可能にする実装、機能が一番現実的で有効では、という考え方だって出てくる。勿論個々の事例における折衝(無断転載なのに転載してるからやめてくれ、といわれてやめる人もいる、など)が無下にされるわけではないし、当然そうするつもりも何もないです。
インターネット、ウェブテクノロジーは自由で便利だということの両義性の深遠がここに現れているのではないでしょうか。それは責任というかたちで表されるものかもしれない。そしてこれは単なる飛躍かもしれませんが、モノを作ること、表現の自由に関してもまた。