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「落ち度」はこういう文脈で「自己責任」と互換性を持つだろう。「落ち度/自己責任」は大抵の昨今流通する概念と同じでヒステリックな符牒を帯びている。「責任」について何がしかを言う場合、それが法を根拠にするのか、規範的なものを根拠にするのか、もしくは、絶対的に交換不能という意味での倫理的な主体「私」を根拠にするのかで、内容が変わるだろうし、理屈で言えばこれらはごっちゃにはできないはずだ。「自己責任」という言葉はもう生まれた時からヒステリックだったと、今思えばの話だけれども。責任の切り分けは色々なポイントで難しいと考えられるけれど、だからといって例えば、100パーセントどれかの主体の責任であると決定することは、恐らく人間に至難だし、ややもすれば思考の怠惰とみなされるかも。そして当の「落ち度/自己責任」はそんな傾きを見せているのでは。
どちらが先ではなく、国が、法が、社会が、それら自体の責任において、成員たる個人の責任を保護しうること、何かしらのセーフティネットになることを理念的に非とするには、どのような自傷行為も避けられず、ゆくゆくは自体の命取りになるかもしれない。勿論これらはあくまで理念のレベルであると留保する、というのは、実際問題として、そのような社会性だったり公共性だったりといったものが、不安定でありダイナミックな動きを見せているから。

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概念の生成論はそれ自体興味深い。その一つの大きな契機として、主にはマスコミ、総じてメディアによる伝播力における、ブーストされたりカットされたり、ベクトルづけられたりといった、その意味されるところの変質生成とでもいうようなものがあるだろう。それは広義の政治性、つまり特定の政治的意図とは質的に離れた構造的な意味での政治的言説といった側面で語られたり、または集団・社会心理学的な見地から説明されるかもしれなくて、俗には「余裕がある時は安穏・寛大/不安な時はヒステリー・攻撃的」というような、この場合では後者が働いたものとして、概念・意味生成のプロセスを観察できるのではないか。特に興味深いのは総じてそこに、何らかのパトスがついてまわるということ。いえば、ロゴス的なもののパトス的な運用、とでもいって格好をつけてみる。

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・事実と真実の乖離、その距離
事実は真実に想定されるものごとのあり方、極点。ナイーブになると循環する問題だけれど、客観的な事実というものを社会的真実や共同体的な真実が「要請」することはよくあるし、そうせざるを得ないこともあるだろう。ここにおいていわば個人のセクシュアリティの問題が関与してきそう。件の沖縄の事例においては、ほとんど知識・情報がないのでぼんやりとしかいえないけれど、国際政治のレベルから地域社会のレベルから関わってきて、同列にはおろか序列化も一律には難しいと想像する。ただその中でも政治ゲームに利用されるのは不可避で、目立つ。
・加害と被害
精神分析とのおつきあいがわからないので、でたらめな理解であるだろうけれど、なら書く必要があるのかという話でもあるのだけど、妄想的な加害者の気分、あるいは被害者の気分の共有の回避が、「落ち度/自己責任」といった概念に現れているのかな、なんてぼーっと考えた。同情したくないいう言い方は情緒的に過ぎるかもしれないが、端的に心を関係したくない、関係させると辛いから、という合理化というか自我防衛機能というか。また別に被害妄想的な側面が際立っちゃう場合もあるかも、とか。

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僕も根源的な暴力というものがあると考えていて、それは自分の信念による要請だとも思っている。その上で「性犯罪」「性暴力」がそういったものの現われであるということは絶望以外の何物でもない。
マルコさんの性意識、性的規範は僕のそれからしたらラディカルだなと感じました。なるほどと思ったのは、当必然的に対象(ここでは女性一般?)に押し付けられてしまう、投影されてしまうところの己の性意識、規範が、構造的に機能してしまって、暴力(「性犯罪」だけではなく)を恒常的に具現化増幅化しているというところで、つかみどころない、とりとめないが、その実支配的でもありうる、それも根源的な暴力としてそうでありうるところの、「性」性一般というものへのアプローチ、自覚的なそれに関する認識についてです。