3時が来た、という言い回しはいまだにずっと詩的だ。僕に3時が来た、というと来訪者をおもてなししたくなるようなウキウキ感を覚える。逆に僕に3時は来なかった、というと茫漠ながらも死さえ想起させる、そんな詩的パワーがこの種の時間表現にはある。同じ事を意味しようとして例えば、僕は3時に着いた、などというと、どこか任意の場所への移動を連想させ、誰かに、3時にどこに着いたのか、更に、3時にどこに着いたにしてもまあそれ自体に興味はないけれど、そもそもが夜中にうろつくとは何事か、お前の親の顔を見てみたくて見たが、別にどうということもないな、この不良なりそこないメンが、などと現実的に対応され、そこでつい怒ってしまうからキレるロストジェネレーションなどと特集される。

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最近はこのはてなダイアリーに何を書いたらいいのかわからなくて、別に何を書いてもいいのだけど、内なる亀井さんや松浦さんに相談しいしい、「ずっと何を書いたらいいのかわからなかったのだから、別にいいじゃない」「亀さんだよ〜」などと言われ、それはそうかもだ、とうなずいている。ついったーとたんぶらーを使うようになって自分の中におけるここが意味として相対化された、というより客観的な事情もある。
最近はこのはてなダイアリーに何を書いたらいいのかわからなくて、別に何を書いてもいいのだけど、と上に書いたが、思えばこれは僕にとって結構恥ずかしい告白で、肛門のまわりから出る湯気を集めてエコゲーム、などと叫ぶより軽く1000倍は恥ずかしい。
Marco11のマルコさんがどこかでブログまたは一般にネット営為に携わってる人々は往々にしてさびしい、ロンリーピープルだ、というようなことを仰った乃至仰ったと勝手にそう解釈したのだけど、それをヒントに、ロンリーピープルのネット営為一般は、さびしいが故に、さびしさを紛らわす、誰かと積極的に消極的につながる、そういうようないわば目的的な営為というよりは、ただたださびしさそのもの、存在のどうしようもないさびしさ、孤独のそのままのあらわれでしかないし、積極的にそうである、そんな風に想像してみた。さびしさは感情だとして(感情を貶めるものではない)、孤独は存在論の範疇へとわけてみるに、洗練された孤独は自我のサバイブ、強さであると考える。皆孤独な存在だという認識を、己の慰めにするのではなく、我を我としてその絶対的な孤独のうちに生きることの意味。一人では生きられないが独りでしか生きられないという、個とその個以外、他者、社会などの接点/深淵における強固な逆説的事態からはじまる、はじめられる事柄。
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この亀井のスターライトなふるまい、コンボは、と言いたくなったが、
これは特別でなく、わりとずーーーーっといつでもポイントポイントで
こんな感じなのだと想像する。このふるまいは発明だ。
努力研鑽してるのかもわからないし、わかりたくもない、わかりようもない。
ので、亀ちゃんかわいいなあなどといい、またごまかす。