セセセ、セセセパパパ、セクシーユニットて!!!本人たちが宣言してたんだっけか?つんくさんが仰ってたっけか?都合の悪いことは軽やかに忘れる俺の脳みそよ、もう永遠に忘却の海に沈んでていいよ。しかし・・・これほど頓馬なジャーナル概念もあるまいてヒヒ。「セクシーユニット」(笑)。もっとリラックスしろよ、肛門をゆるくしろよ。「セクシーユニット」(笑)が入らないじゃないか。ああマスとはその機能において何と不便なものなのか、便秘で自家中毒なのかと、同情すらしてしまった。同情されるべき俺に同情されるマス、手を取り合って仲良くやろうよろしく。さて、本人たちはどうだろう?もっとちゃんと見てよ、と梨華ちゃんなら息巻くだろう、でも押し殺しているだろう、と独善的に信じているが?でもそれについてはわからない。永久だ。梨華ちゃんみーよの岡やんのボイン中、いや胸中については何も知られない。つまり胸中の胸の部分を彼女たちのボインになぞらえたのが先の記述であるが・・・ああ俺は汚れてしまった。ただのオヤジがただのオヤジになってしまったOIOI。泣いているのだ。でも俺の身の上話よりは鼻糞のほうがよほど塩辛くおいしいから、即、食みなさい。

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梨華ちゃんのことを考える時、同時にほとんど必然的にプロフェッショナルというものについて想起する。それは自体アイドルプロフェッショナルと言えるものだと考えるが、その核には普遍のプロ主義が息づいているのだと想像している。山口百恵に関しての伝聞の伝聞だが、皆ごめんね堪忍ね、動物だからしょうがないわね、の動物ほのぼのハプニング、具体的にはある動物(忘れたので架空のぬえなどを想像してごらん)がアクシデンタルに糞尿を舞台に撒き散らして、番組予定としては事後彼女が唄を唄うといった流れだったというのに、その汚物は独立して、人間のちんけな予定などまるで斟酌せずその臭気やら汚イメージやらを爆発的にふりまき全てをあざ笑い完膚なきまでに台無しにし、制作関係者の頭髪頭皮頭まわりを軒並みずるっと抜け落とさせたらしい。ファブリーズなど無い時代、しかし最中、彼女は眉一つ動かすこともなく、はたしてそのレベル4の汚染地帯において唄を唄いあげたとのことだ。伝聞の伝聞を3倍増し以上にして記述したが、そういう事態、そしてその中で輝いたプロ主義、というお話であり、それを梨華ちゃんに対しても勝手に見ている、投影している、というお話である。梨華ちゃんごめんね、押し付けてしまって。
そう、梨華ちゃんだってただの女の子だ。モモエはどうだったのか詳しく知らないが、女の子だったと思う。モモエも眉一つぐらいは動かせよ、または動かしてもいいんだよという意見も十分ありうるだろう。モモつながりで、ハロプロ兵器の嗣永桃子ならどうだろう、とおもむろに想像してみる。先ほどの動物ハプニングシチュエーションでは、まずくさいです〜やです〜と涙し、いやいやをするところを、しみハムキャプが、でも皆が待ってるのよ、ブラウン管の前で、と諭す、後にわかった、もぉ(桃ちゃんの一人称)はやります、とすっくと立ち上がり歌唱へなだれ込むという物語享受者との共犯関係的予定調和を達成する、といったような。桃ちゃんしたり顔の戦略家アイドル、という一方では端的にハロプロ物語の一以上のものでも以下のものでもないものであり、そうでありながらも、なおかつこれはこれで一つのプロフェッショナルとして全うであるだろうことは、強調してもしすぎることはないだろう。でも、そう、桃ちゃんだってやはりただの女の子である。ただの女の子であるロジックとアイドルプロフェッショナリズムとの深刻な相克がここにある。アンチノミー

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梨華ちゃん物語、みーよ物語、岡やん物語は以後何章続くのだろう。色々な事象が変わって、ハロプロ物語は強制力を緩めた。個々のそれらを大きな物語に内在させている必要はもうずっとない。例えば「卒業」の関与性の低下。それは同時に新しい外在的な物語の選択性の上昇を意味するだろう。終われなかった物語はたくさんあったし今もある。美勇伝ちゃん物語は物語として終わる。

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美勇伝ちゃんという愛称(どの範囲まで適用されているのかわからない)が示しているものがあるだろう。それは複雑な愛とその物語そのものだったのだと思う。
ネタが尽きた、ということもあるかもしれない。美勇伝は極めて日本的であり、日本のパロディ、戯画として最高に面白かった、と私は価値づけた。日本の交通の過剰性、その中でどういうわけかどうしても固陋するものもの、壮絶に奇天烈なそれらの現われ、など適当に叙述してみた。つまり、美勇伝ちゃんはすごく日本だよ、ということ。そして何で美勇伝なんですか!といういつまでも未解決な事態。プロジェクト美勇伝はそれらを遂行し完成したのか、と言えばきっとそうではない。もとよりそんな思想性はこじつけだ。それは恣意的な価値であり、そういった価値付けはどちらかと言えば、というより積極的に非常識的である、という風に感じたこと幾夜であったろうかしら。一言で言えばそれは、価値付けとして対象的にすぎる、といった判断に集約されるだろうし、また、その判断から敷衍するに、彼女たちや彼女たちを応援するファンに対する魂の冒涜ともなりうる、といっては言い過ぎだろうか。いやそんなことはないだろう。つまんないものはつまんないよ、エロの直接性から逃れるなんて面倒だよ,と断言する方がまだしもではないか、と。
何のせいにしたところで、因果というものは独立的である。アイドルは自体で矛盾し、芸能はそのプロセスは、経済関係は、感受する者の内的なものはやはり同じく自体で矛盾している。矛盾と矛盾の関係、媒介、連鎖はその抽象性においてきっとずっと変わらない。ならば何が事象として変わったのか?端的に経済関係だ、ということはとにかく面白いしとにかくつまらない。じゃあよりミクロにおいてどうやって楽しむ?これは個人の責任で倫理。