http://d.hatena.ne.jp/musumelounge/20080107/1199731051
どういう喜びが求められるだろうか?と今一度振り返る。閾値や、アナロジーとしてのエントロピーをキーワードとする。つまり、有効な喜びの程度、そのレベルの階層化、と、連続的な感情が鈍磨状態を引き起こすように、昂じる熱の漸次的な拡散による冷めという一つの終わり。
握手すること、コンサをいい席で見ること、いいハロプロの曲を聴くこと、写真集、ツアーイベントなど、総じて各媒体の観賞など、これらサービスは決して一律に規格化できるものでもないだろうが、それでも価値化のピラミッド、およそ対価とも比例するだろうピラミッドにして照らしてみると、想像を連想を膨らませてくれるのではないだろうか。じゃあ今ピラミッドの頂点にあるものは何だろう?握手会か、写真撮影だろうか。いい席でコンサートを見るというのも上の方にあるだろうか。
斧屋さんの指摘にもあるところだと考えるが、このピラミッド、とても細くなってきているように見える。イメージとしては正三角形ではなく底辺の短い二等辺三角形に近づいている。そのダメ押しのような選民サービスが三角形の上に新たに乗っかった、という隠喩的事象。これら事象は以前から潜在的にあったと言えるだろうから、まったく今更のようであるとしても。その上で、問題はキーワードとしたように2点で、サービスの先鋭化によるインフレーションと、閾値の上昇という相関する事柄だと考える。特別なことではない。サービスは先鋭化すればするほど後戻りできないインフレを起こすこと。先鋭化に相関的である閾値の上昇が、階層の相対的下位にあるサービスを成立させなくしてしまうこと。これがまず一般論的に妥当であるかどうか、更には専門的にどうとかこうとかはちょっとわからないですが。心もとない。
この想定でいけば、健全なピラミッドは底辺の長い、床面積の広いピラミッドとなるだろう。細い不安定なピラミッドでも経済的にはやっていけるわけだが、そうなると当然ながら冷えの熱平衡、終わりのことを見据えてサービスが加速することになり、よくある物語の結末が待っている。そして以上のことは誰もが分かっているだろうということ。さてさて、全文孫引きはしないのですが、上記リンク斧屋さんの?の引用部分並び周辺にある、「キーパーソン」を意図的に広げてみると、ウェブのいわゆるハロプロテキストサイトもターゲットになってくるのではないか、と。それも理想的なターゲット。言い方はまあどうでもいいのだけど、ハロプロ語りべ、物語者であり、ウェブメディアという一つ自律的な力を持った場所におけるそれら活動者の伝播をそして語られる物語を、過小評価することはできないだろう。ウェブの世界は今では途方も無く広くなったし、そこでのサービスは細分化したりと日進月歩の様相ではある。以前はたくさんいたこの人たちはどこかに行ったのか?世界が広くなって声が届きにくくなったのか?さもありなんだが、ピラミッドと閾値を想起するなら、また違ったイメージが浮かび上がる。いつのまにかピラミッドの体積からはみ出てしまっていた、閾値から出てしまっていた、そういう物語。これがただの懐古ならいいなと思う。
消費者も色々だろうが、エンターテインメントサービスの「バレ」というものを消費行動においてどう操作するか。悪く言えば「気持ちよくだましてくれ」と。「バレ」は実際事実ではなくて、受け手である消費者の集団幻想であるかもしれないのだが、とても強力で確固たるものだ。よく言えば、あるいは換骨奪胎すれば「新しいウソとしてのエンターテインメント」である。それ以上にびっくりするような圧倒的なエンターテインメントはいつでも大歓迎です。でもそれってとても難しいことであるだろうと想像する。
新しいピラミッドのラディカルな遷移が待たれるのか?じっくりと物語の復権を待つか?その条件は厳しい。なるようにしてなったということを認めるのは勇気のいることではないか?みんなどこでも食い合いしてるわけだ。僕は自己規定はともかく、その行動からすればいわゆる熱心なハロヲタではないということを最後に。ピラミッドの1階あたりをウロウロしている人といったところ。