サンタの奴が入ってきませんように、と靴下の中にメモを入れました。これはサンタパラドックスの序章です。でもついに序章で終わったようで、安心です。実のところ、僕こそが紛うことなきサンタ本人なので、サンタに入ってきてもらってはまったく困る、ひどいご時勢、よくてもどちらかが泥棒呼ばわりされる事になる、その場合僕のほうがまず不利だ(自分の家なのに)、と思い、煙突をレゴブロックで埋めていたのです。すると、どうも僕はチムニー作業屋、煙突掃除屋さんなのではないか、という抗いがたい気分に浸ってしまって、チムチムニー、チムチムニー、チムチームチェリー、と唄わざるをえなくなりました。サンタ話を引っ張りすぎました。
音楽が音楽以外の事象、非音楽的事象とイコールである、というのは形而上的お話ですが、それは一つの信念として、あるいは真実として僕の中で確固たるものとなっていく・・・そんなサウンドです。ドキュメントにならなかった音楽のことを想像してください。つまり、それは歴史として、歴史的に僕たちがアクセスできない音楽です。いささかロマンチシズムの鼻息が荒くなってまいりました。それら非ドキュメンタルな音楽は、上の形而上的定式に照らせば、どちらの項に入るのだろうか?無論それは音楽であるので音楽なのです、と同語反復をしてみるも、ドキュメントでないという意味では、非音楽に区分されるのではなかろうか、という発想も、あながち拒否できない。いやいや、一理否一理以上のものがそこにあるのではありませんか。しかしそもそも判然と音楽−非音楽を区別することなど、誰の造作にもかなわないわけであるし、翻ると、この区別自体が一種の強固なイデオロギーに絡めとられているといってもいいのではないか。音楽はあらゆる事物の混交したもので、如何様にも切り分けられるし、もっといえば、全部が音楽であり、同時に音楽でない、という何だか禅問答のような、直観が要請されても別にいいのではないだろうか。その考えに意味があるかどうかはまた別の話です。バイバイ
イデオロギーから脱出するぞ、という叫びをこそイデオロギーはふんだんに回収しますし、もっと物騒な叫びなら、尚のこと、巧みにあしらわれやはりイデオロギーの対象と成り果てるのです。過激なものの方が安全という逆説が発生するのを尻目に、イデオロギーに従順になって無色透明になることの方が余程危険なあり方であるかもしれないフフフ。いやフフフと笑うとこれ、こいつは怪しいなと判断されるインデックスになるだろうから、僕は安全ですよというアピールを四六時中ニコニコすることで醸し出す方がよろしい。イデオロギーに、システムに、かしこく溶け込んでください。
名無しの唄に憧れます。匿名の唄、作者のない唄は例えば作者不詳という形でありうるわけですが、そういうのでは勿論ありません。また突飛な空想が始まったのかと嘆かないでください。僕は今自分の口臭がウニぽいことに気づいて、愕然としています。その上嘆かれもしたらちょっと立ち直る自信を持てません。僕はパンチドランカーではありません。サンタもといチムチムニーです。ガチムチ兄です。とちょっと己を笑わせつつ(苦笑でした)、名無しの唄に戻ります。名無しの唄のポイントは、それを「誰が作ったか」という属性としての作者、それらもろもろの情報を失しているというところにあります。つまるところ、楽曲の純粋さを如何に確保するか、そして純粋に楽曲を評価する、というお話になるのですが、ここには難問があって、まずもって「名無し」であるということ自体が、楽曲の純粋さ、そしてそれに準ずるであろうところの評価を決定的に損ねてしまう。あかんやん。でもあきらめないでください。というか僕はあきらめませんでした。どうすればいいか。そこで方法としての現象学的還元にならって、方法としての「音楽の名無し的還元」を考案するわけです。といっても別に新しいことではありません。根源的には現象学的な還元によって、音楽対象を聴取し記述分析するということになります。
と、同時に、記号学を頑張ります。現象学記号学の挟み撃ち作戦で、音楽を追い詰めるということになるわけです。何故ソシュールは「差異」を言ったのか?何故同定性を科学的に確保するに、消極的な方法を取らざるをえなかったのか?彼のあらゆる二項区分はその問いの後の話ではないだろうか、と思うようになりました。「差異」の含みは強調してもしすぎることはないでしょう。
僕は何故音楽を作るのか、作っているフリをするのか、という問題は上記のことと関係があるように思われます。