「DD」はコレクター心理、所有欲、「マジヲタ」は信仰の証、複数買い、または消費したくないので買わない、とか、いろいろな立場がいて面白いなと思ったものだ。

捨身アイドル - onoya's blog

 
なるほど。「買わない」人もいらっしゃるんですね。
 
まず、僕は「消費」という言葉について一つ語りたいのです。
「消費」という言葉が一般にあまりいいニュアンスを持っていない、というのは折々で感じるところです。ネガティブなイメージがつきまとっている。無駄遣いとか、エコの逆とか、過剰なバブル時代を思い出したりする人もいるかもしれない。
アイドルに関してはどうか。やっぱり同じように、どうもいいイメージではないだろう、という感触がある。もっと言うと、それはアイドルというものをより直接的に脅かしたり、汚したりするものと考えられて、忌避されるように見える。
僕はアイドルに関しても積極的に消費という言葉を使います。わざと使っている節もある。まず、人間の営為において消費は不可避だと考えていて、そういうどうしようもなさに対する態度として、使っている。それはシニックかもしれないし、ひねくれ根性によるものかもしれない。
もう一つは消費の快楽みたいなものとでもいえるかどうか。消費すること自体にとてもエネルギッシュな、爆発的なものを見ているのです。これはバタイユ経由です。単純にお金を使うということだけではなくて、経験とか視覚の消費とでもいうか。バタイユならエロスを持ってくるかもしれないけれど、どちらにしてもいわゆる「性」一般ではない何かであると思います。
僕は消費という単語を使います。これは単純に言葉のレベル、単語のレベル(といっても広大だろうが)にある問題なのかもしれない。要は、ただ消費という言葉を使っています、といったことです。でもたんぽぽさんも、それから確か諸行さんもこの言葉を避けられてた、あるいは消極的に捉えられていたように見受けられた、そういう記憶があって、それなら、単純に言葉の使用の問題として片付けるには惜しいものがある、といっていいのかもしれません。例えばヲタの心理的態度というような契機で問題化できるかもしれない。
 
僕にとってはやはり、その写真のその当のイメージがどうであるか、直接的即物的なそれがポイントになってるように思う。「かわいい」かもしれないし、「萌え」かもしれないし、「表情がいい」「デザインがいい」とかかもしれないが、そういうのはワンテンポ遅いように感じる。ただの錯覚かもしれない。
手元に「女に幸あれ」の握手会かな?その時のと思しきれいなの写真があります。床にへたり込んで物凄くいい笑顔です。これは情景的で物語的だ。その場の何かを、出来事としての写真を感じさせる。加えて、日頃、れいなの笑顔の写真を貴重に感じている、というのは、いつもきめきめれいなの印象だから、なのでこの笑顔はいいなあ、と思った。こういうのも動機として考えることは可能だと考える。
 
何故これら写真を所有したいのか?
上記斧屋さんの引用から、「コレクター心理」「信仰の証」「複数買い」というのは僕には無い。ただ「信仰の証」というのは一つヒントになるかもしれないと思った。今思い浮かべたのは、十字架の装飾品を常にその身に持つというような行為です。これは「信仰」、宗教的なそれの要素が大きいのだろうけれども、もうちょっとシンプルな、象徴的な行為とでもいったものが近しいかもしれない。戦場に家族の写真を持ってきている、それにキスをしたりする、そんな兵士を想像した。何かしらの心のよりどころとして、イメージが「モノ」として現存していること、そしてそれを所有していること、身に持つことに意味がある、ということは考えられる。
 
何故オフィシャル写真をネットで販売しないのか?これについては、ずっと疑問だ。実際ネットのモールショッピングはあるわけだし。確かにハロショに行って、現物見て選んで買う、というのは、例えばコストの面で買う側も売る側も少なくないメリットがあるのかもしれない。でも、インターネットでウェブカタログを展開して販売するとなったら、写真のイメージ、写像などという特性に鑑みて、それらはウェブブラウジングにとても親和性が高いと想像できるので、こと販売するという面においてはメリットが多いのではないのだろうかと思うのだけど、どうなのだろうか。