http://d.hatena.ne.jp/alta/20070920
面白かったです。結構僕はモダニストだって反省的に思った。
 
生活ってそれ自体化け物みたいだし、巨体に絡みとられてる感覚でしょう。生活を合理的にルーティンとしてかわせると考えてたら、何てことは無い、逆に生活の奴隷になってるという。ライフハックでハックされる私たち、みたいな。まあ暗い言い方は脇にどけておくとしても、生活を生活することってなまじありふれてるし、自明のことだからより、実践の苦悩があって、そこで選択できる態度(幻想)を「ライフスタイル」なんて呼んでみたり、仕事や余暇、趣味などでバランスをとってみたりする。
そんなに「生活」を過大視する必要はないかもしれない。そんなの簡単にやりすごせるじゃないか、と。また、実際「生活」に酷薄に圧されている人々もいるわけだし、それを「生活」という概念でどうにかこうにかするのは現実的でない、とも言える。まあこの場合、概念の範疇が、対象とする範囲が異なってるわけですが。
大胆にいってみるに、「非日常」がどこにいってしまったか、というのがポイントのような気がする。非日常の非日常性。「ポップカルチャー」はどんどん拡大していく。それは生活に入り込んで、薄まっていって、って感じ?汎ポップ論。八百万のポップカルチャー。ポップ・アニミズム。それは、希釈のイメージ、熱力学のイメージで拡散。ポップエントロピー。それにつれて、生活≒日常はどんどこどんどこファッショナブルになっていくし、ポップになっていく。記号化していく。シンボライズされる。もう良し悪しという軸では手に負えないし、意味も無いかも。
ここにおいて、僕=主体を設定すると、ミクロな権力≒価値(フーコー)で、島宇宙(「ウェブ人間論」梅田×平野)の成員で、いわゆる「リアル」の規定するアイデンティティで、マクロな制度に押し付けられる何かで、っていう風に捉えられうる。でも、別にこの主体は「生活」の対抗概念でもないね。生活的主体。こういう思考のプロセスが一つモダンかな、なんて。
大分ぐるっと回ってきて、「創作」がここにどう関係してくるか。安易に「創作」=「非日常」だっていう風にはとても言えない。よほどのパワーでないとそれはそれとして成り立たないだろうから。というよりはもうパワーの問題ではないのか。なので、例えば反極端に「生活」のための、生活に奉仕する「創作」ってのは、現行の本来的な志向として、称揚されてもいいのかもしれない。誰がどこで聴く「音楽」か、寝る前のBGMは何か、などなど。一ついえるのは「創作」はどう転んでもエゴイスティックでしかないだろうということ。自覚の有無なんてそこでは吹き飛んでしまうかな。僕は「創作」の媒体でしかないです、シャーマンでしかありません、イタコですイタコです、なんて機能性を謳って自己を滅そうとしても、あるいは皆がハッピーになる「何か」、社会に還元される「何か」を作り上げても・・・と書いたところで、随分ナイーヴだなあと思った。モダンなナイーヴ。というよりオルタさんの話のテーマから大方それてしまってるな。

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

これはゴーギャンの伝記的物語だって話だけど、それは置いておくとして、一人の絵描きの話です。作中のこの絵描きの印象的な最期、創作の最期、それを一番重い意味で、エゴといってのけることができることに、何か大きな意味を感じるのだけど、言葉にできない。ここには「生活」は無い、と思う。またもう一回読んでみようっと。
 

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僕は「生活者」です、って面白い宣言じゃなかろうか。