友だちに教えてもらった唄


好きだ。
確かめるなんて無駄なこと、と唄われていて、そうだろうか、と思う。わからない。少なくとも、いかほどにか腑に落ちていないと、先にすすめないのではないか。納得を、時間の経過にそのまま委ねられるのかどうか。パッと一瞬で何かがわかるとき、辻褄が合うときは、ごくまれにしかないだろう、と想像する。そのような事態を己のうちに振り返っても、まったく記憶にないから、どこかさびしいし、何ならあきれてしまう。いつだって体のどこかの部分が先にゴールを切って、残りは後でそこに追いつこうとする。
自分が何かを選んだと言う。それはきっと半分ぐらいまでは正しい。そのことを一つ私は倫理の問題として引き受ける。私が私であることからは逃れられない、私は私の存在から抜け出ることはできない、という単純なことだ。どんな諸道徳の内面化も超越する、不可抗力の入る余地の無い空間に充満する私だ。それは私が私の責任で想像する私の責任−倫理でしかなく、なのでどんなにその想像が馬鹿げていても、それはそういうものだ、としか言えない。私は何か勘違いしているだけなのかもしれない。
ともあれ、だとしたら、そのもう半分、正しくない方の半分をどう扱えばいいのか。選んでいるし、選んでいない、というどうにも矛盾しているようなあり方を、例えばそれぞれ違う適切なレベルに区分することでやりすごそう、というのでは決してない。もっと混然としていて、途方にくれてもしょうがないし、開き直るかのように、正体不明でいる。私は一体何をしているのだろう、と思う。