「生きづらさ」について (光文社新書)

「生きづらさ」について (光文社新書)

色々ポイントはあると思うけれど、「人間の当たり前」の自明でないところ、それらにおいて無条件なんてものは何もないというところ、についてが大抵いつも自分の大事な問題だから、当該センサーに引っかかる文章から読みほぐすというスタンスになる。
結論から言えば、いつだってそれら「人間の当たり前」は獲得していかなくてはならない、運動しなければならない、という主張を引き出せる。物質的な生きづらさも精神的な生きづらさも、それがまるで所与であるかのよう振舞うなら、断固として排除していきたい。この本で展開されている話は、結局一からやり直していかなくてはいけない、「人間の当たり前」を提示して、その諸内容を理念から具体へ引き摺り下ろさなければならない、そうでないと意味がない事々だ。その上で、何をどうやって考えてどう運動すればいいのだ、という話。
「普通の人生」「普通の生活」ですらもうずっと理想でしかないのじゃないのか。旧弊なアイデンティティを離脱するのも、逆に、昔の共同体を志向するのも、改めて一からやらなければならないのではないか?でありながら、全ての場所で同じように塗りつぶすこともかなわない。あるところではうまくいくことがあるところでは全く効果的でないということもあるだろう。むしろ、それが俯瞰してみればバランスだとも言えようが、だからこそ、苛烈な日々に、極めて不安定で、試していかなくてはならない。そしてそのようなことはいくら言っても悠長なのか?今死ぬ!

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二つこれまた時々気にしてるロジック、レトリックについて。
一つは、「承認」。他人による、社会による「承認」。やはりこれも人間が人間として生きるところの自明にかかってくる、といえるだろう。「自己責任」と同じく、色々な論点からこの概念は問題にされてるんじゃないかしら。そしてまた当の自己責任と密なものを見出せる。一つ対置的に「自己承認」といってみる。自己充足的な承認。これは、しかし、独立する概念でなく、やはり自分以外の誰かからの「承認」が前提だろうか?村上龍風に言えば、生きるための「プライド」とでも言えそうだけれど、それにしても何かしらの「生の理想」それも強固な理想、大義名分が伴っていないと「自己承認」「自己内燃永久機関」は成り立たないように思える。うーん、といってみるも観念の遊戯ぽくもある。
もう一つは、「幸不幸の相対化」。権力的には、更なる不幸を想像させることで、現段階の己の幸不幸を麻痺させる方法が一つ。幸福な人と比べるな、不幸な人と比べれば、あなたは(或いはわたしは)まだ幸福だ、という論理。今現在の状態の絶対化を許さない。なるほど、耐え抜くためには手段を問わない?

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承認ゲーム競争をがんばり続ける人たち、がんばったけどダメだった人たち、ゲーム自体に意識的には興味ない人たち。勝ってる、勝った人だってギリギリだった、何度も死んで蘇った、努力した、運もあったかもしれない。いや、個人の力などたかが知れているのだ、今のわたしたちは構造の、社会の大きな流れの産物でしかない。個人と社会、どちらを状況の要因にしようとしても、それは方便になってしまう?個人を変えるか、社会構造を変えるか、それとも「人間」の自明を変えるか。

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と、以上、大雑把だなあ。
「人間の当たり前」ってずっとぶっ壊れ続けてる気がする。それって、当たり前に与えられるものなのか?無条件にそういうものだ、そう教わった、記憶がある。でも疑わないし考えない子だったから。