絵を描けない人、文章を書けない人、なに言ってるかわからない人 - よそ行きの妄想
これはあくまで日常的なコミュニケーションの話についてである、と読んだ。ある内容が結果として「伝達」されないと意味がない、成立しない、特に「伝達」されること自体にその各々の状況が大きく依存している、というような条件下のお話。理解すること、或いは理解しようという意識における一つの合理的な目的、つまり伝達のための理解といったところがポイントだ。
なので、この話をそのままインプット-アウトプット一般、理解一般やコミュニケーション一般にまで敷衍するのは難しいし、そもそも書き手さんの意図主張からはそういう話ではないだろうし、あくまで、蔑ろにしてしまっては困るコミュニケーション、伝達における「理解」という一面について、である。

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比喩的な言い方だけど、アウトプットしながらインプットしてく、ってのはまた一つの方法でありうる。フィードバックさせながら即興的であるような、別の側面で理解を伴う、といえるものだと考えている。言えば、理解が先に厳然と内在して、それをアウトプットするというのはやはり一つの見方だし、方法だ。更にコミュニケーションを絡めていくと、受け取る側の相手の「理解」「インプット」もあるわけだし、もっとアクティブに相互的にテーマの内容の理解を開発する、深めていくといった向きもあろう。あと特殊(とあえていう)でいえば、禅のようなコミュニケーションや精神分析のコミュニケーションも、気になる。どちらも話し手-聞き手の非対称性が前景化している?

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クローズアップ現代10月7日放送「“助けて”と言えない〜いま30代に何が」書き起こし - ただいま村
平野啓一郎の「ドーン」読みたい!「自己」の馴致?自分に関しても他人に関しても、「本当の(一貫した)人格」という人間理解って強固にあるのかな。それがないと不便な生活になるってのは、昔ながらの「共同体」への対応ということ?色々な共同体、生活が混在してる、そんな風に見えるからなあ。今更かしら。