べりすとれんじ

欲求と欲望。体−生理、生物体だって一番近い環境だ。しかし、西洋の素朴な心身二元がどれほど私に根深いのか、わからない。欲求や欲望から自由な「私」、という想定。そういった場合によっては相対立する、矛盾する原理を並行的に備えることの可能。たくさんの視点があれば、自由ではあるかもしれない。
高度な自己暗示(自己暗示は自己暗示であると「ばれる」と無効ではないか?)、それによってなるところの習慣体系からドロップアウトすること。リハビリの困難。欲を自己暗示によって統御すること。いずれにしろ、心や精神を何かしら「物体」のようなもので理解する、という習慣は興味深い。「克己」という概念、理念について調べる。
つまるところ、人間を駆動させるものは何か?
「ほどほど」が生活の成立する条件であるとして、それは達成するに難しい。

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自分の好きなものが他人の関心に触れることを忌避する?その点自分はいかほども潔癖でない(はずだ)。「好き・嫌い」と「よい・わるい」の区別はひとまず置く。そして、それら対概念としての妥当性もやはりひとまず置いてみる。
例えば、自分が命を賭けて評価する物事、というといかにも極端だけれど。そういう物事を他人に評価されるのは、どうか。
別に受け入れられなくてもよい。でも、いざ受け入れられない、評価されない、そのように表明されると、傷つく、かもしれない。何しろ「命を賭けてる」から。まあそれは心の理屈で勝手だし、まずもって言い回し、言葉のあやでもあるし。なるほど、それはともかくも、評価のコミュニケーションというものがあるのだろう。誰か他人にある物事を「好き」という事態の意味。つまり、何かを好き嫌いと表明することで、ある種のコミュニケーションを図ろうとしている、「好き嫌い」が手段的である、といったところ。そこで対象とされる物事がほんとに好きか嫌いかはあまり問題でないかもしれない。
うーむ、ちょっと最初考えていたこととずれてる気がした。ちょっとというか大分か。
・「好きなものを他人に表明することの恥ずかしさ」
ですね。そんなにずれてないか。言えば、上記評価のコミュニケーションに関わってくるわけだけれど。何が恥ずかしいのか、というと難しい。表明すること自体か、その内容なのか、とか。「恥ずかしい」もちょっと特定しすぎなので、何かしらの抵抗感がある、と言い換えてみる。
別の角度から迫ってみるに、自分の何かに対する「好き」はそれ自体で充足してる、と言えそう。だとすると、他人に言う必要がない。