火垂るの墓見たわ

久しぶりに見て、やっぱりむなしい気分になるのは変わらなかった。けれど、自然に登場人物の誰彼となく色々な視線で見てた。

映画の最後、戦争が形式的に終わって、蓄音機からhome sweet homeが流れる。きっと戦時中は政治的な理由でも、あるいは状況的にも流れることはなかっただろう。今も何も変わってない。今は一応戦時中でない、ただそれだけの何の当たり前でもないことだ。当たり前でないことを当たり前とすら、愛しいこととすら、くしゃくしゃにすらしない。しがみもすがりつきもしない。できないのか、傷がないのか。感傷の繰言も政治的言説に回収されるなら、せめていつもピストルを自分の頭に突きつけながら話すことにしようと、その辺りがしょうもない限界だ。それすらかなわない。