紺野さんは友だち!

というのは妄想である。冗談である。いや、結構本気である。紺野さんこの間のお誕生日おめでとうございました。アイドルと友だちであるとはいかなることか?という問いを無効にすることは可能だろうか。結論は、個と個だ。これは手前勝手で独断的だ。そんないわばネガティブな穴ぼこから這い上がれるだろうか?

  • 何を考えてるか

「友だち」と表現されるある種の関係について。逆にして、ある種の人間関係を「友だち」と表現することについて。

なんて、ぶってみた。「友だち」という言葉に多かれ少なかれ固着執着させられる、教育環境があった。というと一面的だけど。「友だち」を作ろう。「友だち」を大事にしよう。

  • それはただの名前です表現です。便宜です手段です

なので、いちいち目くじらをたてなくてもよいか。

  • ウェブコミュニケーションではどう?

今ぼくが書き散らしている文章をご覧頂いているあなたはぼくの友だちですか?知り合い?知ってる人?ネットで知ってる人?文章書いてるただの人?なんて規定をいちいちしなさるだろうか、というと面倒ではあるな。もし万一仮にぼくのことを誰かに告げると仮定したら、どういう前置きで肩書きで僕のことを紹介してくれますか?説明してくれますか?いえ、実際お願いしてるわけではありません、あしからず。逆に、ぼくはどうか。恐らく普通の紹介をしています。職業だったり、どんなことしてる人とか、という風です。で、それら表現の前にネットで知り合った、と大抵付けます。

  • 内省

省みるに、自分は「友だち」という言葉、概念にあまり重きを置いてないなあ、と。いや置けてない、かな。勿論「友だち」という表現を使わないわけではないのだけれど、やはり便宜的で。説明を省略する、一般化することで、コストを抵抗を減らす。それはまあ皆そうでしょうよ。表面的なはなし、他に関係性を示す言葉がない、って場合もある。「小学校の同級生」「サークルの先輩」「取引先の人」などはどうなんだ。それはやはり便宜的習慣的な呼称であるけども、「友だち」とは違う、といえる。そういう話ですね。うむ、そういう言い方、便宜とか習慣とかにおいて示される関係性からはこぼれる何か別の関係性がある?そういう何かに期待してるところが少なからずあるのかもしれない。あと、もともと一般的な人間関係というものに関して淡白なのかもなあ、と思った。

  • そのコミュニケーションの相手にぼくは何を求めてるか

というと、またドライに響く。ぼくには、それぞれ色んな記憶やら何やらを共有してる「友だち」がいます、といいうるだろう。色々な経験を共有した。色々な話をした。あるいはそれほど明示的でない、雰囲気を状況を経験を共に経験した。ウェブコミュニケーションにおいてもそうだ。そういう「友だち」がいます。あえて、リアル−ウェブの「友だち」両者を分けるに、そこには情報量の差があるかもしれない。つまり、面と向かって行われるコミュニケーションにおける情報量は圧倒的に多いでしょう、と。無論、一理ある、と穏当に肯定するが、これについてはもう一度あとで書きたい。

  • そのコミュニケーションの相手はぼくに何を求めてるか

ドライだ。当然相手がどう考えているか、どのようなつきあいをコミュニケーションを求めてるか、それはわからない。何も求められてないかもしれない。お互い非対称だものね。これはゆくゆく人間理解の話に通ずるだろう。というのは、ある人間を一人の人間として理解するに、何をもってするか?という場合、相手に「求める/求められる」という契機がどれほどのプライオリティをもつかと合理的に問えるからだ。この人のここが嫌だからこの人は嫌だ。あの人のここは嫌だけどでもあの人は総体として好きだ。人間としてあいつは最悪だけど、この一点でのみつきあえる。などなど。

  • なあなあ

は生活の知恵だ、と上記から導けるかも。だってぼんやりできるなら楽できるなら、そういう効用をもったコミュニケーションは、限定的にせよ肯定されるんじゃないか、と。それでうまくいかないときに毅然と現実的に対処できるか、という問題が大きくぶら下がる。

  • また少し脱線、「片思い」

不幸といえば語弊があるけれど、情報のアクセシビリティが高まっても、受け手である人間の情報処理能力は限られるだろうから、そりゃああなた片思いだって増えるぜ、って話。ただこの場合の「片思い」って言葉は言葉ほど深刻じゃないのではないか?なぜか。端的に言えば人間関係の流動性がその根拠。だけど、大きな条件として、その人がその人であるということ、アイデンティファイされた情報の継起的な蓄積というものがものをいうかもしれない。これは匿名通名顕名のはなし議論とも関わってくるだろう。よかれあしかれウェブは道具だという唯物論的な思想が背景をみてとってしまう。極端な事例でもないだろうけど、ウェブは手軽なストレス発散ゲームである人と、ウェブは人生の大きな一部である人が、ピンポイントに事故みたいに出会いうる。手段や目的は異なれどもどちらにとってもウェブが道具的な媒介項として機能してる。

  • 個と個、名前と名前

翻るに、これって理想的状況の想定みたいな話になるのかな。このエントリを書こうと思った引き金は、「友だち」という言葉、概念をめぐって(ウェブ)コミュニケーションがちぐはぐになる状況についての意見を目にしたことだった。ジャイアンのび太に言うみたいに、「おれたちって友だちだよなあ」ってのはまあマンガでは笑えるし、実際ノリがよかったり気分がよかったら、うまくコミュニケーション転がしていけるかもしれないが、うまくいかない場合の方がより多いのか、と。コミュニケーションの個々の距離感が「友だち」という言葉で、主には、ウェブの仕様設計、その理念部分も含めて、ソーシャリティと呼ばれるようなものに対する、個々の価値評価のズレによって、うまくいかないことが起こりうる。ミクシィならマイミク、ツイッターはてな、どんなサービスにおいても起こりうる事例でしょう。つながりやアクセスがコストレスであるのに対し、その意味の照らし合わせがコストフルになること。それらは専らテクノロジーの選択によって解決することが最有力ではあるのだけど、ソフトたる人間の心が追いつかない場合は多い。
「友だち」という言葉概念は便利な部分がある。でも人と人のつながりのコミュニケーションの可能性自体が増えてるとしたら、公共的にはその利用のガイドラインみたいなものが常ならず刷新更新されていくだろうし、個人のレベルではその言葉に対する当の個人の反省、自分の価値付け意味づけというものが重くなってくるだろう。果ては、相対する、関係しあう個人と個人のやりとりの成熟ということになるのだろうか。更に理想の話として、ウェブにおける、名前、アイデンティファイが、ウェブ的な即時的性格とは垂直的だと思うのだけど、その継起持続でコストをとることで、コミュニケーションの価値の意味の照らし合わせにおいてはコスト減らすことができる、ということ。戦略的に言えば、ウェブ人格の有効性。それはその性格、キャラクターが一貫していることで、その思想やら観念、価値提示にブレがなくなるだろうから、やっぱりコスト減少させるのじゃないかしら、と。

  • リアルで充実する情報量のあれこれ

結局、話としては、ウェブコミュニケーションに偏った。偏るべくして、というところもあった。それで、友だちと承認されたい、友だちと呼びたい、という気持ちに関する話はウェッティだわ、気恥ずかしいわ、という話がある。実際ぼくもまあ恥ずかしく思ったりする。確認しなくても「ぼくとあなたの間柄」だろ!なんていうことすら恥ずかしい、というような。
で、リアルとネットならリアルの方が情報量多いってのはひとまず肯くとして、だからそっちのが優位って発想は、結局リアルのためのネット、手段ネットなんだなあって思ったのです。前提がそこにある。一生ネット−ウェブでやり取りする間柄ってあるのかな、あったら面白いとは思うけど、どうだろうな、ありえるかな。一度会って、やっぱリアルではいいわ、ウェブでおつきあいしようね!とかはあるかも。
でもそれでもなおリアルだからこそ情報量多いってことに色々疑義がある。だって、そんなに、実際面前にして情報をガツガツ得ることができるかしら、と。まあ姿かたちとか、声とか、口のにおいとかはわかるでしょ。あと話しぶりとか、お金持ってるかどうかとか。多いわ。情報多い。でもまず一つ、そんなたくさんの情報処理しようとしてするの、あるいはできるの?って話。情報量の観点からネットとリアル比べてコミュニケーションの質がどうこうってのはあとづけ、正当化の言説かなと思った。それから、いや、そういうことじゃなくて、実際会うことで、勘、フィーリング、ナンチャラセンスが働いて、ビビッとくるって話があるだろう。じゃあウェブコミュニケーションでビビッときたことない?要は、ウェブはウェブで完結してるところもあり、完結してない手段であるところもある、って平たく言えばそんな実もふたもない表現になったけど。どうなんだろう。ウェブは単なる道具ですよーってさらっといってのけるに抵抗があるぐらいにはウェブに愛着やら何やらがあるみたい。