エンターテインメントを楽しむことについて

  • スポーツ観戦

エレンさんから岡田斗司夫のエンターテインメント観?を又聞きした。

それはだいたいこんな感じ。いわゆるポップ歌手のコンサートってのは、見てるぼくらよりも明らかに演者のほうが楽しんでいる。自分はサイモンとガーファンクルのファンだが、それはあくまでもレコードのなかの彼らであって、声も年取った彼らを、よく知らない奴らといっしょにゴミゴミしたところで見ても全然面白くないので、来日してもコンサートを見に行かなかった。演者がコンサートの終わりなんかで「みんな、ありがとう」と言うけど、そりゃそうだろうな楽しんでるのはあんたら演者のほうなんだから、だったらそっちが観客のぼくらひとりひとりに金を払うべきだ。
この話題は、彼がどうしてWBCを見ないか、というとこから出てきたものだった。他人が楽しんでる「だけ」のものを見て何が楽しいのかと。で、まあ、スポーツに限っていえば、ぼくにとってもそれがまったく同じ理由だったので、ひさしぶりに彼の論調に納得した。

コンサートは金もらって見るならいい - activeエレン

又聞きだし、まあ岡田さん独特の表現してるのかなあって想像したのだけど。エンターテインメントを楽しむ、楽しみ方は色々ある。ぼくはテレビで野球を、まず積極的には見ないけど、あらかじめテレビついて放映されてたらまあ見るかなあ。WBCとなるとちょっとまた色んな大きな要素が入ってきそうだから、もうちょい一般化してみて、スポーツ一般ですね。サッカーだったら野球とちょっと見方変わる。最近は見る機会劇的に減ったけれど。
スポーツは単純に人間の身体の可能性すげー!みたいなところで興奮します。ぼくは野球よりはサッカーに関しての方が知識多く持ってるから、サッカーする人間の身体の可能性について、野球のそれより興奮するところが違ってくるのだとは思う。あと、人間の身体の可能性だけならサーカスとかヨガの荒行でもいいんだけど、スポーツはやっぱ競技ということで、大きく勝ち負けに意味があるのだろうと。特定の個体、チームの応援という意識は無いですが、例えばWBCならシンプルに日本のことを気にしていた。
あと、たくさんの人間で同時にカタルシスを得ることの意味もあるだろうなあ。ただこちらの楽しみ方はぼくもあまり得意でないです。そういう経験あったかな?と記憶を手繰っても出てこないなあ。

  • エンターテインメント一般

スポーツは「身体」という点で知識いらないかな、と思った。ローマの闘技を想像した。社会制度からして違うので単純に比べられないにしても、カイヨワ風にいけば「身体感覚」の「遊び」「模倣の楽しさ」「そのイメージ」あと「勝ち負けの遊び」みたいなことになるのかなあ。で、スポーツ以外はどう?知識いるものがある。高度なそれを要求されるものもある。文化的に共有されてないとダメな場合がある。スポーツの「身体」云々は個々の文化的なものを超えてるような、わりと普遍性を獲得してるような気はする。

  • アウトプット側

演者というエンターテインメントをアウトプットする方は、ひとまず色々楽しいでしょう。その立場に至るまでの苦労やらを置いておいても。あるいはそういうのを昇華してたりするのかもしれない。ただ、楽しいんだけど、楽しんでるんだけど、どういう風なアウトプットにしよう、受け手にどういう享受与えよう、という意識と共に、といった具合でしょう。「楽しい」に深みがあると想像します。

  • インプット側

見るほうはどうか?享受するほう。やっぱり「楽しい」「楽しむ」「享受する」に意味がある。スポーツだって「身体」という点で強度持ってるかもしれないけど、やっぱりそういう即物性だけじゃない。たくさんの享受のレイヤーがある。それから「楽しむ」の自己開発がある。それって面倒くさいかなあ?今思ったのは、「楽しむ」のは受動的な性格だけではないのだけど、能動とまでいうと、面倒くさい!って思っちゃうかもしれないなあと。見るものを圧倒的に押さえ込んでしまう、受動的にさせてしまう迫力のあるエンターテインメントはあるだろうか?

こないだの歌謡チャリティの布施明が何度見ても素晴らしいです。もう、こんなにストレートな事に感動出来るかな?っていうぐらい感動してしまいます。ていうか、とにかく、唄で普通に感情が揺れるっていうのがすごいな。最近ないなって思います。どっちかっていうと、音楽でノリとか知的に楽しむものは多いですが、こうやって感動できるという方向性が唄にある事を再発見するような。

http://d.hatena.ne.jp/alta/20090504#p2

ナガモトさんが布施明のことを書いてた。当該エントリの話の流れとしては「大画面テレビ」という受信インフラテクノロジーと絡んできたり、日本のエンターテインメントの、芸能の歴史の話という側面もあったりするのですが。この布施明をぼくは見てなかったのだけど、面白い話だなあと思いました。この場合、ナガモトさんは価値づけてる、「楽しみ」を開発してる、という風に見えますけれども、それでも、布施明は圧倒的だったのだろうと想像する。善し悪しはともかく、テクノロジーでアウトプットインプット拡散してしまってるから、大時代的なものに素朴に回帰することはとてもむずかしいですが、その中での布施明の存在。布施明言い過ぎた。

  • エンターテインメントのバレ、共犯関係

で、翻ってみるに、エンターテインメントについてぼくたちはいろんなことを知っています。その成り立ちから、現行の諸構造から、それらのいい部分と同じぐらい悪い部分、それは道徳的な意味合いでなくて、こういう風にできてるんでしょって見る人にバレてるってこと。クラプトンもう日本でコンサートしないって言ってたじゃん!とか、スポンサーうっさい!とか、ああもっぱらお金の話に偏ってるけど、それだけじゃなくて、エンターテインメント業界の内部暗部もともと見えなかった、隠れてた隠されてた部分について、ぼくたちはその真贋がどうであれ「知っている」と「思っている」、「思い込んでいる」。これが「バレ」です。「合理性」による把握とでもいえるかも。
「バレ」てない時期、素朴に人々がエンターテインメントを享受してた時期が果たしてあったのか?それは何ともいえない、あったかもしれないけれど、なんとなく昭和の街頭テレビを思い浮かべました。みんなが目を輝かせてテレビ見てるというイメージ神話ね。いや、体験してないからわかんない。ポイントはその「バレ」が情報としてみんなに共有されてるってところだと思ってる。要は多かれ少なかれ皆が皆素朴でなくて、「バレ」てるその「バレ」がさらに皆に「バレ」てる、それぐらいの共有するものを持ってるんじゃないか。受け手だけでなく、送り手も勿論。だから「バレ」に対して「メタ」的だったりもするし、それがエンターテインメントの要素になってたりもするんじゃないでしょうか。ピンポイントにそこを狙ってるエンターテインメント作品もあるかもしれないですね。ともあれ、それって「バレ」の共犯関係じゃないか、と。

  • ところで、プロレス

プロレスには全く詳しくないのだけど、八百長とか出来レースとかいうような、プロレスに関する言説は面白く感じます。あれは本気で殴ってるとか、そんなわけない、とか。リングの外でプロレスやってるので、誰が見てるんだ状態。白黒どっちかでないと、ネタかベタ/マジかどっちかでないとダメという強迫観念みたいなもののプロレスです。これらの場外プロレスと「バレ」は関係してる。で、一回「バレ」たらもう戻れないんだろうなと思う。「バレ」てるけど、「バレ」てない振りをするとか、「バレ」を無視するとか、そんな方法はある。

  • 見るとするの時代、フィードバック

あと、例えばあの歌手は歌下手だ、曲しょぼい、あの選手は選球眼が悪いのでダメ、というような価値下げ、ネガティブな意見に対して、「じゃあおまえやってみろよ」というのは、面白い。そんなの面白がるなよという話はあるけど、聞いてくれ。価値下げ、ネガティブな意見を言う人はまあ恐らくそれを当人よりうまく出来ないし、出来ない上で言ってる、かそこまで考えてない。いやまれにほんとにそのくさす対象よりうまく出来る場合があるのかもしれないけれど、それはどっちでもいいです。一般化するに、これは、「する」立場でなく「見る」立場なのです。だから「見る」人は何を言ってもいいのか?というのはまた別の話なのだけど、これらの立場はやはり「エンターテインメント」を享受する話に関係してくると思うのです。シンプルには「する」側と「見る」側のインターネットメディアテクノロジー介するフィードバックだけど、また別の話にもなるし、これ自体でもっと考えたい。
と、ひとまず。