エンターテインメントテクノロジー

  • 逆説

技術が孤独を深めることの逆説は、SF。
つまり完全なヴァーチャルリアルに近づけば近づくほど、わたしたちは技術を介さない触れ合いをコミュニケーションを減らすことになる、というシンプルな発想。技術によって距離も時間も制約を解かれて、コミュニケーションは増えていくだろうという期待が素朴な技術進歩観に基づくものなら、直接的なコミュニケーションがやせ細っていき、いずれはみんな究極的な孤独の事態に陥るのではないかというのもずいぶん素朴な実体論によっかかるものだ。質と量の話を混同してはいけないとしても、人間からメディアを切り離すことはずっとできはしない。メディアテクノロジーの行く末。
 

  • 技術によって個人は個人になる?

孤独であることと個人であることは全然違うかもしれない。ただ両方ともそれぞれに責任という概念に真摯につきあわざるを得ないという点では同じかもしれない。
情報がより個人のものになるか。情報の質は権威が担保する、その技術がノウハウが担保する。その考えはやはりいまだ強固であるとはいえ、それらはずっと相対化されている、そういう傾向にある。わたしたちは情報を選べるだろうか?少なくともある部分ではそうだ。情報リテラシー、というと便利だけれど、情報を個人化することはまったく簡単でない。この場合の個人化は、個人に担保される、個人に責任がある、そんな情報の質に関わるものだ。今までずっと言われてきた話。現実的に言えば、さまざまに相対化された権威的である情報ソースからわたしたちは情報を取捨選択し受け出しする。そこには正当も過誤も混濁するし、シグナルノイズ比は一定でないので、情報のインプットアウトプットはいきおいコストフルだ。それでも集団の経験に基づいた明文化されない傾向やあるいはマナー、習慣というものがそれらコストを、漫然であるにしても緩和していく。
 

  • エンターテインメント産業と技術産業

エンターテインメント産業にも技術産業にもお世話になっているわたしたち。メディアを利用しているわたしたち自身がもうメディアである、といってのけるのは大いに人間の主体的な責任に関して甘いところがないではない。ともあれ、わたしたちは両産業にがっちり組み込まれている。そんなメディアの情報の出し入れだけに限っては海賊も何もない。ただ水が高いところから低いところへ流れるようなものだから。海賊行為をそのごく一部であれ含む、人の行為の規範となるところは何であるか、ということにとりあえず応急的な答えを出すなら、それは法律だったり、道徳、慣習だったりと言えるだろう。法律なら、他の行為と整合性を持たない、あるいは積極的に法を侵害する行為に対して、刑罰をもってして応ずる。道徳や慣習なら共同体レベルで村八分にしたりするか、見て見ぬふりする、とか。現実はもっともっともっともっと複雑なので、事はまったく簡単でないにしても。
過激に言えば、海賊行為を撲滅するには、技術で技術を圧倒しないなら、ただただ技術を使わせないようにするしかない。ここにおいて、科学技術の倫理はわたしたちのすぐそばにあることになる。人工授精やクローン技術などと同じレベルの科学技術の倫理が生活に侵入する。
これはエンターテインメント産業と技術産業の喧嘩という陰謀論へ発展する。エンターテインメント産業は高価な技術によってコンテンツを囲い込んでいた。技術産業はそれらを廉価に開放する。この二つの産業が少なからず独立であるなら、やりあわない理由はないし、そういう陰謀、というよりは経済闘争に関する自然な妄想、観念の発生だって、実に自体がエンターテインメントになりうる。
なるほど

もしテクノロジー業界が、購入物を合法的に楽しむことからユーザーを阻むような技術的制限措置を――懸念されているとおりに――実施するようなことになれば、その受益者となるのは、措置によって作品が「保護される」といわれているアーティストではないだろう。また間違いなくそれは、措置によって芸術の享受が制限される音楽愛好家ではないだろう。そうではなく単に、またもや……産業コングロマリットが享受者となるのだろう。そのとき彼らは、互換性のない次世代メディアやデバイスを用意して「技術の進歩」の名のもとに私たちに売りつけることだろう。

音楽配信メモ A Nation of Thieves? - 盗人国民?

こちらの陰謀論の楽しさは、右手と左手がマッチポンプしたり談合したりしてる、そんな構図。
 

  • 技術倫理の啓蒙について

このたった今、道徳は倫理観は啓蒙は、どこかの1クリックを絶対に止められない。そしてそれらに関する教育がそれだけでいつかの1クリックを抑止するだろうか?わたしたちはそういう道徳教育を直接は受けてこなかった。つまり、(違法)ダウンロード、(違法)複製をしてはいけません、という風に。勿論既存の道徳や規範から類推して、それらをしないようにしようと努めることはできる。あるいは個々の業界の存続のために経済的な文化的な観点から技術とうまく付き合っていこうじゃないか、と。変わらないもの変わろうとするもの新しいもの、それらのただの闘争であるといえば淡白ではあるだろうけれど。
いや、教育に道徳に責任転嫁をするつもりはまったくない。ただ、それらで、啓蒙で1クリックの抑止を訴えることの空しさを非力をまるで頭から無視してるかのような態度は片手落ちじゃないか、という印象を持っている。それら空しさや非力をパブリックに言わない理由はなんだ?いや言ってるのだろうか。言ってるけど聞こえてこないのか、聞こえてないふりしてるのか。あるいは、ひょっとしたら面子などによるのだろうか。弱みを握られるのは嫌だ。正直であることは難しい。一般論ぽくなった。ひいては、お世話になっている産業とどうやって付き合っていけばいいのか、という話。