いぇーい、色々突っ込んでくれたら嬉しいです

弾き語りアルバムを出しました。「春に狂わないわ〜弾き語り集」です。音源はフラッシュプレーヤーでも、まとめてzipでも落とせます。是非是非。
 
http://iwaoka0.com/no_mad_on_spring.htm
 
ジャケットとてもいいので、欲される方はもう是非お買い求めいただけましたら。


以下はCD出すにあたって考えてること考えてたこと。

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デジタルデータは整備されたインフラ上では複製コスト移動流通コストがほぼ意識されないです。貨幣経済交換経済において、「あくまで」データのレベルでは、それすなわちタダを意味する、といってももういいでしょう。それでも言いすぎかしら?著作権や既存のビジネス構造を無視なんてしません。それらが無効とされる危機にある、脅威にさらされているということは、その実際的な内情はともかくもさんざっぱら言われていることです。デジタルデータがタダだとして、だからこそ問題が反対に無限大に大きくなる現状。
さて、音楽自体が無価値かどうか、もう少し限定的により現実的に、それらは経済的にどのような価値を持つか、は永遠のテーマでしょうけれども、一ついえることは、今が、音楽などの作品のデジタルデータの複製伝達に関する技術のひとまずの完成のあとで、音楽の経済的対価にまつわる、あえて分けるに作り手側と聴き手側の態度を考える決定する過渡期であるということ。それは今までCDならそれに払っていたお金は一体なんだったのか、どういう意味があったのかという相対化の契機だったりもするわけです。ぼくは音源はタダであったとしても、CDというモノ自体パッケージ自体はまだ複製伝達できない(それさえも技術が解決するときっと経済、交換のあまねく地球を覆ってきたシステムは致命傷を負わされることになるでしょうが、まだひとまずはその事態を心配しなくていいでしょうか、甘いでしょうか)、なので、パトロンの手形や株券としてのCDだったりおひねりやチップと交換されるCDとして流通されうる、対価の対象となりえるだろうと考えています。
この考えは少しく理念的に過ぎるので現実にはそぐわないかもしれない。radioheadの壮大な実験がいろいろな人に複製伝達テクノロジーに対して直面するにいかに勇気を与えたとしても。あれは大きなパトロン実験でもあったのです。勿論誰にでもできることではない。モデルケースとしてふさわしくない。あるいは、それらは、とてもおおざっぱに近代の合理性という判断基準からすれば、退行的であるように見えなくもない。一律だった対価は再びわけのわからない心や習慣や諸々の数値化されないもののもとにはっきりと戻っていく、とすればどうですか。おひねりでチップで、CDに対してお金払ってくださいと言われても、戸惑ってしまう。音源はタダで手に入るのに、その上で作品としてのCDに、その作り手にお金を払う意味。
以上はとりわけ、パッケージビジネスにおいて音楽にお金を払うこと、その中でも特殊なコミットの変質、極一部のはなしです。この話、ただただ心強いのは、id:altaさんがおっしゃることでもあるインディーズの「グローカル」な性質に相性がいいのではないかということ。というのは、スモールで機動性に富んでる、インターネットを武器にして、特殊=ローカルを世界へ接続することができる、そんなインディーズはとりあえず大きな規模の経済の流動で必要とされるような合理を選ばなくてもよくなったから。シリアスな経済的コスト競争にも無縁でいられる、少なくともそれを選ぶことはできる。ただコミュニケーションのコストは反比例的に高くなる。いやいやとんでもない、これをコストという言い方これをコストであると考える考え方が、大きな経済の発想にあるのでは、と思いますけれども。インディーズのグローカルは牧歌的な世界観を持ちえます。それはすでにコミュニケーションの次元と相即している。地球の遠くにいる、近くの親しい音楽家というイメージは突飛でしょうか?

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ビッグビジネスやあるいは文化の話に関しては、上記から直接的に移行できるかどうか、というと飛躍になるでしょう。
http://anond.hatelabo.jp/20090308235742
と、とても派手なエントリがあったのです(はてなアノニマスに派手云々いうのも野暮なのか)。
まず、「文化」というときに文化のどの側面についてを言わんとしてるのか、と。

「実作論」と「受容論」のあいだにある「オーディエンス論」がうまくつかめていないと、色々と混乱をきたします。自分があるジャンル文化に言及している時、それが実作のHow-toなのか、解釈のHow-toなのか、それ以外なのか把握しないと。

http://twitter.com/tricken/status/1299042662

とtrickenさんのおっしゃるところのアプローチを、ジャンル文化固有のレベルからジャンプしてるところにある横断的なものと受け止めました。もとよりtrickenさんはそういうことをおっしゃってるのかもしれない。文化の文物の作り手としてのわたし、受け手としてのわたし。んー「オーディエンス論」は何だろう。それが中間項であるならば作ると受けるの媒介だったり、両項のフィードバックの関係だったりするかしら。具体的には何だろう。
ともあれ、わたしはtrickenさんの文脈をきちんと理解できてないかもしれないながら、ピンときたのです。文化を創る、殺す、のは刺激に富んでいるかもしれないが、その対象は文化の何なのか?
あと、これは単なる揚げ足取りかもしれないけれど、文化の総体は恐らくわたしたちのコントロールの対象ではない。殺すのも不遜なら創るのも同じぐらいそうではないか、と。歴史の大きな流れにかまけるわけではないとしても、つまり、だから文化を云々してもしょうがないからまあいいやとさじ投げるというわけではないにしても、きっともっとイカしたアプローチ、文化に相対するアプローチがあるのではないだろうか、と。上の増田さんはそれをあきらめてる、というわけでもありますまい。そこで一つ「インディーズ」ですよ、と謙虚に行動することは可能かしら。わたしには高校生の妹がいません。