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チョコレート魂

チョコレート魂

店で売ってなかった!からitsで、悔しい。だってCDで手に入れたかったから。
何度も何度も聴いています。ぼくはもう松浦亜弥がわからないし、それでいいかあという気もします。ぼくが見てる彼女はまったくの一面でしかなくて、それで何を思うのか、語るのか。ぼくは自分の音楽の理念も彼女に破壊されるかもしれない。それは恐ろしいことです。そして大それたことです。彼女と音楽一般とを同じように、あるいは両者を統合して、向こうに回してうまくやってけるなんて思ってたのかなあ。
彼女のことが好きなのだと思います。無論好きにもたくさんの好きがあり、そのうちのどれがわたしの彼女への好きであるのか、にわかには見定めがたい。前もって言い訳気味であると呟いてみて、大いなる好きということの怠惰に身を任せよう、なんて言い草はどうでしょうか。つまり、「好き」の濃密、含蓄の広大にこの心を委ねてしまうのです。もう分析なんてどうだっていうのだ。どうだというのだ。
というのが、昨日お酒を飲みながら書いたことで
彼女は何でも唄える、着せ替え人形だった。どんなファッションも自分に落としこんでしまう、主体的なマネキン、トルソーだった。その主体性の含意するところは、少し複雑に見えて、彼女の内からと外からとの欲されるものの折衝に関する器用さと、そして同じその器用さを惜しげもなく荒ぶる傲慢さで揺さぶっていくような能動、という大きく二つの局面。
今回の二曲はシンプルなバンドサウンドでやはりファッショナブルだし、ただただ昔のようにはじけてるのでも、小器用に唄うのでもなくて、じゃあ何なんだろうか、彼女の正体はもうわからなくなり何なら降参したい。ただ一貫しているのは、いつからか彼女が唄い発音するところの「きみ」であり、そんな彼女の「きみ」の特別さはこの曲でもまた如何なく発揮されていて、それを彼女の何かしらの属性めいたものに還元することを回避することが、留保的であれども恐らく自分の今の態度として相応しいと思う。ぼくにはもうずっと歌手としての彼女はポップでなくなってしまって、それは他の己の傾向と比較して異常事態である。
おしまい。