共同体と個人

ついったーで個人の強固な内的世界観がその周りの共同体を脅かす事件についてポロポロ流れていたので。
個人が何らかの傷を受けて自己修復せざるを得ない時、併せてその個人の周囲が修復を手伝えなかった時、内的なオブセッションが嵩じてしまう可能性がある。結果妄念の城を築いて独断的なイデオローグになったり、周りの共同体をその観念体系に巻き込まんとする、物理的な暴力で己に妥当しないものの破壊に走る、など。これは一つの分析の方向で、その前提としては、個人の帰属集団や共同体への価値観、規範の行為レベルにおける「適当な」すり合わせ、馴致、あるいはそういう志向への内面の規律化などが想定されている。例えば、道徳的振る舞いとか法的なそれ、規則、習慣なんかも広い意味ではそうだろう。
前述の「適当な」という留保は、まずもって共同体内の価値は行為のレベルで判断されるというところにあって、心の中はとりあえず見えませんので。うん、この言い方はちょっと淡白か。でもやっぱそうなんだよなー。どんな信念持っていても、たとえ反道徳的な非社会的な邪神をあがめていても、行いがその共同体社会に許容あるいは積極的に肯定されるものであるなら、何も問題はない、とまで言い切ると強いけどね。反共同体的な行いの可能性が認められるならどうか?とか敷衍すべきお話はわんさとある。
んで、「わかる/わからない」を、まあそれらは多分に観念的に過ぎるから適当でないかと思いつつそれでも元にして、考えを綴っていたのです。社会、共同体にはたくさんの「わかる」がある。「わかる」の審級が配置されてる。根源的な「わかる」があるし、相対的に大事でない「わかる」もあったりする。それが社会共同体の価値の諸々。で、全員が全員それらの「わかる」を「わかっている」わけじゃない。社会の価値の総体を網羅しているわけではない。そりゃそうだ。上述の流れで言うと、「わかっている」行為をしてたら「わかっている」と周りにみなされる。逆は逆。「わかる」価値を体現してないと、変な人ねーと後ろ指さされたりする。悪ければ、怒られたり、非難糾弾されたり、裁かれたり、刑務所に入ったり、殺される。その「わかる」の総体は生成流動してる。けれどまあ安定を目指すでしょう。「わかる」の価値同士で反目しあったりもするけれど、収束しようとする。
ポイントは二つの非対称、まず、「わかる」は周りが決定する、ということです。「俺はわかってる!」ってどんなに主張しても周りが「わかってない」って言ったらそれまで。自分が「わかる」という「社会的価値」を決めるのではない。ただその「わかる」がある日突然認められるなんてこともありうる。私の「わかる」がみんなの「わかる」になったら。繰り返して、心の中で「俺はわかってるぜフッフ」とかつぶやくのは勝手、というかどうしようもないから。俺はわかってるぜフッフ。
もう一つの非対称は、「わかる」は自己たる「わかる」を「わからない」、というところ。これは認知とか認識とか理解とかの話になると思うのだけど、「わかる」はどうして「わかる」のか、どうして「わからない」のかを、「わからない」んじゃないか?と。ピンボケだ。「わかる」ってどういうこと、とりわけ社会共同体の「わかる」という価値がそうであるってどういうこと、って話・・・蛇足かなあ。
総じてちょっとまああっさりした図だし、いまさらの話ではあるなあ、と。取りこぼした部分はまた別の角度から追っていくとして