ネタとベタ食べた

出会いというきっかけは決定的だった。コミュニケーションのコストが高かったから。ステロタイプな曲がり角でごっつんこ、とか。そこには語られないごっつんこは無い、はず。ごっつんこは絶対語られる。それで、一度方向性が決まると修正変更するのが大変でしょう。これは時空の制約によるものかな。そこにこそドラマが成立するわけでもあるだろうか。ごっつんこで「やややすいません」「こちらこそごめんなさい急いでいたもので」走り行く彼女は定期を落としていった、届けなきゃと、何だろうこの鼓動は、ドキッとして恋になっていたか、これが恋か。または「あ、あの時の!」「おまえか!」みたいになって、一時の禍根からでもやっぱり行く行くは色恋に、というパターンもあるかしら。どっちもいつまでも古いおなじみ。ジーニアスオブラヴ。勿論たった一度の経験という神秘はいつになっても意味がある。冷静に他人事のようにいうと、それには意味を付与しやすいだろう、と。とりあえずは別の話として考えた方がよさそうだけれど。ともかく、コミュニケーションコストが低くなった、コストが下がったことで少しの我慢強さや忍耐すら無しで、交流のやり直しができるようになった。つまり「きっかけ」を何度も反復できるようになった、と言っていいのじゃないか。相対化される「きっかけ」。時間や経験をもう少しうまく使えるようになった。可能性が格段に増えた。

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あーこの人と仲良くなりたいけど、10年ぐらい無理かも、と思うことがある。自分は欲張りだから、単に多く望みすぎなのかもしれない。それでも、ひょっとしたら10年後、もうちょっと懇意になってるかも、なんて考えてる。夢想。人間をそんなに信用してるわけでもないのに。「理解しあう」は突き放された観念でしょう。それをまったく放棄するのではないにしても、旧態依然じゃない、意味が変質してるという感じを得てるし。それは道徳の標語なんかじゃない。「仲良くなりたい」でどんな関係になりたいのか。

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しかし、何十年単位の長いスパンの可能。これは新しい地獄だー。

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いい意味でも悪い意味でも地獄。孤独って独りでは達成できないことがよくわかる。テクノロジーって孤独のプロセスは野蛮なんかではないな。究極の孤独ってきっと全く独りでいられないことだ。すごい洗練。

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勿論どんな形であれコミュニケーションを望むならという限定はあって、そこが占める意味はやはり大きいだろう。つまり、それはやはり可能性の領域のおはなしに過ぎないのだ。誰かに物凄く嫌な思いをさせられたらどうだろう、またその人ときっかけを作ろうとあえてするだろうか?疑問だ。いや、そんなのは全くごめん蒙る、積極的に避けることが吉じゃないか、何となればどの能力とっても人間には限界があるし、そんな根本の話。もっともだ。あるいは、人間には性格がある。それがコミュニケーションにおいてどうしようもなく作用する時もある。そういう風に見えるときがある。なるほど、性格は個人の理解のためにとても役立つ。それは社会的価値だ。そして、コミュニケーションの合理だし、知恵だ。それらの意味をあわよくば転倒させよう、そんなつもりなど毛頭なくて、もっともっとささやかな可能性の話はできやしないか、ということを考えてる。従来的なコミュニケーションの型はやはり確固としてあるとして(そのようにみえるし)、有効であるとして、その延長上でのはなし。繰り返すことになるだろうけれど、そういうコミュニケーションの継続、アップデート、更なる発展が直接大きな協同になるかというと事は大変だし、総じて問題は、コミュニケーションの具体的な動機の違いにあるなんて風に表現してみるが、やっぱり少し力抜いて穏便にのんびりやっていいだろうし、そうするしかない。できることだけできる。と言いながら掛け金を下げている。

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自我の防御力は侮れない。ウェブ上のいやなことなんてきっとキリがないので、システムに頼るだけでなくて、内に鋼を入れて鋳る、打つ。スルー力だなんてそんな大げさなものでもなくて。逃げる、息を殺す、サバイブする。大げさか。そんなにまでしてネットコミュニケーションする必要あるのか?あるいは鈍感になっていく、そうなってるのだろうか。極端な見解は避けるとして、ただただコミュニケーションが少しずつでも変わっていくならば、それに対応するところの自分たちの心、自我、自己なども同じように少しずつ変わっていくと考えて差し支えないのじゃないか、とは思う。そんなに簡単に変わろうとして変わるものではないかもしれないし、都合よく変わってくれるかどうか、という話もある。現にまさにそのポイントで摩擦があるじゃないのか?

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twitterとかwassrとか色んなウェブサービス使って思う。古典的な認識の命題をもってすれば、形式が内容を決定するというようなことで、それぞれの仕様それぞれの面白さ、コミュニケーションの発生ということになるのかも。

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個々人の志向を束ねることは難しい。形式においても内容においても。ウェブで何するかの志向を束ねるときっと効率は飛躍的にあがるだろう。例えば「集合知」ってお題目はそういうところに掛かるんだろうけど、そしてシステムの実装で唯物的に個々の志向を強制することはきっと今以上にできるんだろうけれど、それは何かを殺すのではないか?何かに何を期待するのか、にもよるだろうか?うん、これは再び難しい。何かを殺すことによって得るだろう可能性と、今のままで得ている(そんな実感は無いかもしれないが)可能性とを比較することは困難だということ。厳密に言うと今のままでも志向は選べるし、整えられる。それを反映したコミュニケーションの束、システム、ゲームは幾つもあって可能性を吟味している途上なのだと思う。「はてな」もそういう意味で一つのゲームでしょう。

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ハイデガー存在論を薄めて薄めて、「気散じ」「おしゃべり」というもの、「日常」「生活」というもの、消費的なコミュニケーションを考えている。可能性としてのそれら。

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「人生は短い」イデオロギー、とまでは言わないが。