どうやって前提の常識の文化の違う人と話をするか

下手すれば一触即発になるところ、事なかれが発動してなあなあで終わることができる時はそれでいいだろうか。日常生活においてはそれですむ場合もないわけじゃない。でも後のことを考えると憂鬱じゃないか。その場限りで終わるとその時点で判断できることならそれでもいいかも、でも。あの時なあなあだったから、しかるべき対処をしなかったから、よろしくない事態が今起きてる、とぼやくことを未来に避けたい。ぼやく程度ならまだしもだ。それは知恵か。経験からの汎用としての知恵。習慣は慣用は惰性は、なべて生活的なものは持続が恐ろしい。一度流れが出来たら断ち切るのに困難だ。そういうのを予防すること回避することのためのエンジニアリング、デザイン、あるいはテクノロジー、制度がある。それらすらもその持続において生活的なものの本分に見えることを強調するのかのようだ。「今」という時間はいつも剣呑だ。それはそれら諸物の変革の萌芽を持つ。

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気持ち悪いからやめて、というような「気分」「感覚」を最初の根拠、一歩にして、事態をコントロールしようとする、収拾にはかること。「気持ち悪い」と言う感覚の表明について。それが根拠であるか根拠となりうるかどうかはともかく、立派に確実に現実的な威力となりうることについて。「気持ち悪い」ことは何を要求するのか。「気持ち悪くなくなる」ことか。気持ち悪がっている人に、何で気持ち悪くないのか鈍感だなと言われたら、あなたはとても敏感だと返すことは真剣であるとしても、ギャグに感じられる。
目の前でカメラ撮らないでと言われたら普通撮らないんじゃないの、それがネット上ならありうるし平気だ、と匿名で「認識」を述べること、あるいは非難しているフリをすること。あるいは、人間は技術をコントロールするし、そうすべきだというような、素朴な信憑。あるいは、あなたたちの道徳がわたしたちの道徳であることがまったく普通であるという主張。ネットのコミュニケーションコストは技術に担保されてるという認識を示しながら矛盾してしまう人間のペーソス。どうして「目の前」と「ネット」を比較したのか?
この事態を容認するのは「他人事」だからだ、という指摘。これは言い方の問題なのだろうか。この事態はあなたにとって他人事なのはしょうがないですが、わたしは困っています、と言われると、あるいは「同情し」「心が動く」かもしれない。自分じゃないからそういうことを言えると言われた場合どうすればいいのか。

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横断歩道を歩行者の権利は歩きつづける。死ぬのは人間だ。そして死んだらそれまで。

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法律、政治は目に見えないのに、関係を規定しうる、恐ろしい存在であるということ。

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コミュニケーションしたくないというコミュニケーションとコミュニケーションすること。