開発「性の欲望」→本能の壊れ?

誰経由で教えてもらったか忘れた本。

感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

一章がミニスカへの欲情を題材としてる。そこからハロプロの水着について連想、思っていたことを。
この章の内容は、何故「わたしは」ミニスカに欲情するのか、それは見えちゃ困る隠されているモノが見えそうになるから。見えると見えないのダイナミズム。そういう均衡運動さえあれば、女の人のミニスカでなくてもいいのかも、という「感じない男」。
下着の下には何がある?それについては著者には二の次なのかもしれない。さらに著者はパンツの聖性から宗教的であるをいう。それは直接的にはちょっとよくわからないけれど、なるほど、タブーの侵犯、その快楽というピンポイントで聖性と性性が重なるところはあるかもしれない。強烈なのは、文化的な性性の視点。ミニスカの美学。それはチラリズムの美学と重なりつつも少し違うのではないか。欲望の開発機構・文化です。開発された性欲は諸物と同じくイデオロギーを免れないはず。マジョリティになるものもあれば、排除される性欲の形態だってあるだろう。ひとまずそれらはさておく。

宦官ハロヲタの目覚め

ハロプロの水着、エロ開発ミッションは制作側の大きなテーマだったと思う。性を飼われてきたハロヲタ。おおまかにその歴史の記憶を記述するに、先鋒は石川梨華で幕が開く。黒ビキニの梨華ちゃんのセンセーショナルについて今語ることは難しい。性的、セクシーというよりは、とても健康的な梨華ちゃんだった。だけど、それでも余りあるショッキング。水着ガビーンというウブなのだけど、意味としては、ハロプロでこんなストレートな水着姿なんて今まで無かった!パンドラの箱が開いたゴゴゴ…というところ。もう一方で新しいハロプロ写真集時代の始まりということでもあるのだけれど、それは置いておく。で、それまでに水着自体は無かったわけではない。ただ、ラブマ以降、ごっちん4期が娘。に入って以降で、そういう形式においては(コンサなどは知らない)無かった(と思う)、という留保。

国民的アイドルの水着、ナイーヴ

国民的アイドルの何とやら、である。枕詞の効用。それはすこぶるでかい観念だったのかもしれない。水着姿は自体で劣位なのか?難しい。女子が水着姿を公衆に曝すとは破廉恥だ、というアナクロも全くないといえば嘘になるかも。個人の性意識性規範というものが関わりうるだろう領域であることは想像できる。性のパーソナル。どぎついエロも溢れてる世の中で、たかが水着、されど水着、だ。より一般的にはアイドルが水着問題だ。国民的アイドルが水着になる、と表現すると下世話にも色んな意味が読み取れるじゃないか、と。水着は象徴的だ。色々な意味を読み取らせる。
少なくともモーニング娘。石川梨華が水着になるなんて想像だにしなかった。単純に僕が情報弱者であった、あるいは水着やエロの方向にバイアスをかけていた、ということも考えられないではないけれど。童貞のまま去勢された一ハロヲタがいたという自意識ショック。アイドルの水着って何よ、という拒否とまではいかないにしても、積極的に首肯するに至らないという主張、そしてそれは終わっていないのかしら。

ハロプロのエロ見たいし、見たくないし、見たいし、見たくないの繰返し

水着じゃなくてもいい。水着であってもまあいいけど水着じゃなくても全然いいんですよ。だって水着じゃなくても彼女たちは存在してるもの、というのが根本にあるのではないか。加えるに今や水着当たり前という現行のハロプロ写真集固有の事情もある。つまり水着という形式の飽食があったりする。アイドルの水着は貴重ですお宝です、でもレアだからこそ価値がある、ありがたみを返せという話。
繰り返す、水着が水着姿が象徴的だとしたらそれはざっくり見るもののセクシュアリティを反映するという点でそうなのではないか。アイドルはその象徴をどのように着こなすか?求められるのは単純直接的なエロではなくて、その人がそのアイドルが水着を着るということの意味ということだろう。そして極端な話それは見るものに見たくないという心象を促すかもしれない。「見たくない」欲望の「見たい」と関係している様。性性自体に対する劣位の価値付けだったり(それは秘められているべき、とか)、アイドルの聖性の禁忌その破戒だったりと、これらはやはり極端ではあるけれど、両義的というか境界的というかそういう点で有効であるんじゃないかしら。うれしはずかし、なんていう似た意味でよりマイルドな表現がある。アイドルに性を感じていいの?そしてそういう問いによって開発される性、という。
それで、アイドル一般から離れてそのあたりに関するハロプロ固有の何かってあるのかというと、やはり物語性というポイントから見られるものがあると思う。単純にアイドルという存在の集合体、組み合わせによる幅もあるし、それらに基づくヲタ発の読み、作りとしての物語がある。そして何より人間であるアイドルという矛盾の観点、問題意識も大きくある。直接的なエロに関しては面白いことに一周してネタとして語られたりするように見受けられる。物語、ネタという意味では直接的な性ではないのかもしれない。でも開発ということなら、やはりこれはハロプロ固有のエロスの話である。