全然暑くないので、暑いことを理由に狂えない

政治的なゲームから抜け出したければ、孤島で独りサバイバルするがよい、だろうか?人と人がいるところ、社会では政治ゲームは不可避だとすると。そんな社会でピュアネスを保つ方法。

本当の狂人はみずから狂ってるとか言わないし、考えもしない。ただ虚空に向かってつぶやいているだけだ。

monado on Twitter: "本当の狂人はみずから狂ってるとか言わないし、考えもしない。ただ虚空に向かってつぶやいているだけだ。"

狂人宣言はピュアネスの狡知である時もあるかもしれない。政治ゲームの真空地帯を戦略的に確保するための。「わたしはおかしい」。でも大概は、自分で自分を狂っているとみなすことで、実は他の何かを、別の大事な何かを言わんとしているのではないか。例えば「わたしはおかしい」と言う時は、同時に、それを言うことで「わたしはおかしくない」と意味したい。わたしはわたしのおかしさを知っているので、だからこそ実はおかしくないのだということをまず自分にも言うし、皆に周知もさせたいのだ。つまり、己が「おかしい」状態ではないということを己で決定しようとしている。「おかしい」ということに狂おしくある自我の軌跡をここに見る。
しかし、「おかしい」の基準は社会的である。社会が幾ら「おかしい」の積極的な内実を知らないとしてもやはりそうなのだ。社会はそれでもただ「おかしい」を決定するし、唯一決定できるのが当の社会である。そしてそれを決定し排除的に扱うことで社会は社会たりうる。「おかしさ」が価値観や嗜好などの差異にその根拠を置くなら、全ては差異であることから、ある圏域の中で、あるいは全体で、皆多かれ少なかれ平等におかしいということになる。それぞれはそれぞれとただただ距離が違うしベクトルが違うにすぎない。だとすれば、「おかしい−おかしくない」「正常−異常」の境界線の発生は何に準拠するのか。フーコーなら、壮大な西洋、その知、近代的合理性などをその思考の俎上にのせる、自分たちの決定的な土台であるところのそれらに揺さぶりをかける。

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好悪が認識を決める。それはやり切れない、俺は「より」「純粋な」認識に戻ると決め込んでも、結局それはとてもエレガントな論理の筋道を通って、政治ゲームに回収されてしまう。0か100かでないと生きていけない人は認識の名の下に死ぬが、大体はバランスをとって生きることを考えるだろう。ショーペンハウエルニーチェ、あるいはフロイトがいつでも亡霊のようにつきまとっている。イタコは面倒くさいのでこれらの人を口寄せしはしない。僕は気まぐれに気軽に恐山のことを考えすぎる気がする。恐山事情。