くびき

ぼろぼろになって打ちひしがれてみじめなまま汚泥にその肢体をたゆたわせる末路までが、アイドルヲタの生の一連でも、その存在を肯定する。聞こえのよい妄言だろうか。許容されうる限りでの社会のモデル、ロールプレイへの帰還を半強制的にか約束されて、アイドルとそのヲタはどうにもぬるい眼差しの中、一時の宇宙遊泳のため切り離される。感化院への隔離。最初からその結末は押さえられている。だとすれば、上に肯定されたアイドルヲタの生は、一つのテロルになりうる。
いえ、なに、両立なんてできますよ。バランスの問題なのです。アイドルという言葉やヲタという言葉を勝手にこり固めて盛り上がらないでください。それらは十二分に社会的なのですから。社会において社会化するプロセスにおける儀礼的な他の概念と何ら変わりはないのです。アイドルヲタはただの趣味です。特別視神聖視しすぎているのです。肩肘張らないで、ポップにやりましょう。
放っておいても、流通によって概念は固定化され、例外を含まない、ステレオタイプで過激極端な傾向を拡大する。でないとメディアの摩擦抵抗に勝てないからだ。情報流通の死に抗わなければならない、ジャーナルの使命。いやそれはアナクロな理想像か。むしろ概念自体が流通されたがっている、増殖したがっているようにも見える。メディアは媒質は文字通りのそれらで、概念を媒介し映し身となる。
アイドルが偶像であるなら、偶像が必然的に信の対象である限りで、アイドルを信じるという言い方は、トートロジーだ。この理屈は何も救わない。「信じる」というのは何かしら特殊な心的内的状態であるのだろうか。あるいは、ある行為の外面的な規定だろうか。飽きた、情熱を失ったといった言葉は「信じる」にとってタブーである。「信じられなくなった」がそれら飽きや情熱の減少を意味してはならない。都合がいいのは、どちらも目には見えないというところである。内実にもう少し突っ込むと、アイドルがアイドルであることを信じる、という二重の構造に当たる。1.誰がアイドルを信じているのか - onoya's blogにあるように斧屋さん流にいけば、アイドルがアイドルであることを信じるという形で信じるか、そうは信じないという形で信じるか、ということになるだろう。そこに「愛」がどう絡んでくるか、「愛」の規定性の問題はまた独立して大きくありそうである。
アイドルだって人間である、という矛盾を受け入れることはどちらかといえば、易しい。それは最早、洗練された21世紀のイメージ授受者には矛盾に映らない。それは、アイドルは人間であり人間でない、という時の桎梏に比べれば、とてもとても易しい。アイドルは人間であり、人間でない。血迷いの認識。これには別のヴァリエーションがあり、そちらも致命的である、つまり、彼女たちはわたしであり、わたしでない。
彼女たちとの関係は何だろうか。友だち?ガールフレンド?家族?これらはどういう意味で表現したとしても、やはりおかしい、間違っていると思われるだろう。常識的な語用の範疇にない、といったところだろうか。常識の番人は辛うじてだけれどわたしの中にもいる。じゃあ、もっとクールに、メディアの対応者?いやそれはそれでやはり違う気がする。事実と真実の錯誤の関係。
松浦亜弥の手書きアンケートの画像をたまたま見た。とてもショックだった。そんなことを聞くなよ。あなたがあなたである素敵を知っている。そこに干渉することなんてできやしないのだから。それと同時に、ああそうか、彼女は真剣にわたしたちに尋ねている、と思う。分裂の諸相である。器用に、干渉できるところはそうして、そうじゃないところはそうじゃない。それはまるで神の所業のようだ。
ハロプロを好きなものとしてできることは何だろう。主体的なそれとか、受動的なそれとか。ここでコンテンツテクノロジーへと結び付けてしまうのは、牽強付会かもしれないが、一つ、物語の再生産というものに活路、というと大げさだろうか、ともあれそこに何かを見ている。語られたものを語る、語りなおすことに関与できる、テクノロジーが手元にあるのだ。いやこれはまったく目新しいことではない。ずっと皆がやってきたことだ。シンプルにその歴史のかけらになるだけのこと。