こういう不気味な開け方

高度な化かしあいは化かしあいに見えない、という説。ウソをつくのがへたなら、ようこそおいで、というあしながおじさん的魔法使いは絶滅した。そう、ウソをつくのが難しくなった。自分にウソつくのもウソつかれるのも、誰かにウソつくのもウソつかれるのも、とてもとても難しくなった。ウソとは「物語り」であり、「物語の物語り」「物語を物語ること」である。この流れは情報化社会に生きる人間の合理その宿命とでもいえそうな。情動などもとても即物的な佇まいであり、そういう社会性であるとすらいってもいいのかも。こらえ性がなくなってウソをつけない。ウソの機能は、だますーだまされる、化かす−化かされる、という分離できない能受のセットによるとする。それは社会的価値だった。ウソも方便で、社会が動く。ところが能動はともかく受動において、疲れた。ウソをつかれるのに疲れた。といってホントのことを、ホントというウソを、ウソというホントというウソを、期待するのでもない。ウソもホントもうんざり、いらないのだーという叫びにおいて、エンドレス終わらない終わりの終末観がニヤリと魅入る。そういう終末サーキットに入り込んだ魂は何を期待するだろうか?「歴史の終わり」だなんて大層、どうでもいいやー。
こらえ性がなくなってウソをつけない、と書いた。ホントもウソもいらない、あるいはそういう判断をする前に、情報をインプットアウトプットしてしまう。例えば子孫を残す本能なんて大儀だっただろうものが歯牙にもかけられない、透明の価値になってしまう。ここにおいてなるほど、ミームはリアルだが?だが、とりわけミーム物語を支持するでもない、それはシャボン玉のように吹かれて浮かんで弾けて消えた。再帰する僕のカーニバリズムは微分的な傾向を持ち、加速しながらその時々の祭りを生活となじませて過ごしていく。

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振り出しに戻る。高度な化かしあいは化かしあいに見えない。それでも、つまり、我々は化かしあいをしているだろうか?気づかないだけで?という問いを問う。我々とは、わたしたちとモーニング娘。である。モーニング娘。は確か経血の匂いがした。過ぎ去ったので、それは幻臭でもいいのだが。ご覧じろ、迫り来るは大スペクタクル、動物園・モーニング娘。から、剥製・モーニング娘。、(句読点を連続させるのは楽しい)ホルマリン・モーニング娘。、ガラスケース・モーニング娘。、お人形・モーニング娘。、ライフゴーズオンウィズモーニング娘。
何の文句もない。が、何の文句もないこと自体が、後ろ足で砂をかけているような、自責の念を喚起するのはなぜだ。僕は矢口ではなかった、なっちでもなかった、ごっちんでも、辻加護でも、なかったなかった。当たり前だ。でも、何番目のモーニング娘。かわからないにしても、やはり何番目かのモーニング娘。ではあった、そんな記憶がある。今はどうだろう。ビッグアイコンの消滅ということで何を言えているのかわからない。消滅でなくて乖離としても同じかもしれない。愛さるは超絶キュートであるし、ガキさんは凛凛しい、亀子の表情が変化するのを見る楽しみ、さゆのぽっちゃりグリーク、れいなの努力のポテンツが開放される瞬間、手長足長久住小春の春、みついの草食系動物進化論、ジュンリン来いよジュンリン来い来い来いあああもー悲しい、悲しいのが悲しい。単に君は飽きたのだよ、それを世間では飽きたというのだよ、という言い方は面白いですか面白くないですか?リソースの話なんてどうでもいいな。今どう関わるかというガッツだよ、という意志の正当化がカーニバリズムの箴言シニシズムの佇まいである。いやお前はもうとっくにモーニング娘。卒業してたんだよ…やだ!つんくさん何も言ってないじゃない!というかつんくさん何か言ってよ!ご飯なんてどうでもいいわ。なら卒コンは?卒コンしてないよね?卒コン…卒コンは、娘。コンで…お願いよ!?