内的感覚の記述についてメモ

今ふと気づいたのだが、頭の中で再生される音楽はステレオの音像定位がほんの少し右に寄ってるように思う。重心が少しだけ右にある感覚がある。無理やり左に重心をずらしてもやはり右の方に少し寄っている感覚がある。僕の頭の中だけのことだろうか。それともたまたま今自分の脳がそういう状態であるということに過ぎないだろうか。

umumu - 女のコファシズム−あふたーあうしゅびっつ

と書いたのだけど、やっぱり今もそう。ちょっと右より。ずっとそうだったのかもしれないのだけれど、今まで気づかなかった、言語化してこなかったことにびっくりしたりしてる。で、えいごくんのtwitter

頭の中で音を鳴らすときって、主に顔の右半分でやってる感じがある。で、それだとしつこいというか胸焼けする感じになる。

eigokun on Twitter: "頭の中で音を鳴らすときって、主に顔の右半分でやってる感じがある。で、それだとしつこいというか胸焼けする感じになる。"

とあってへーって思った。僕は顔というよりはより頭頂に近い、脳があるであろうと思しき前面の部分で鳴ってる感じがする。視覚の想起はどうだろう?全体的とでもいうような感じ?どこにその視覚イメージがあるというとぼんやりだけど、眉間からまっすぐ前のどこかで焦点が合うような。
あと、これはちょっとまた別ぽいのだけれど、僕は性欲を感じる≒奥歯がこそばゆくうずく、と勝手に結び付けてる。関連にまったく必然性を見出せないので、これが何なのかよくわからないけれど、スイッチみたいになってる。そういうのも含めて内的感覚って個々で確かめてないだけで色々あるんだろうなと想像する。記述そして比較の層がまず一つのポイントだろうけれど、ウィトゲンシュタインの内的感覚についての表現のはなしなどもまた関連付けることはできそう。脳の局在論、脳機能マップとかホムンクルスとかの話はより直接的に関係してるだろうな。記憶とか。あと

時間と自由 (岩波文庫)

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これの、感覚の「強さ・大きさ」について論じてるところなどを連想した。読んでないが彼の「記憶と物質」はどうだろうか?