umumu

ごっちんが教えてくれたのですよこの唄この詩。「雨が空から降れば オモイデは地面にしみこむ 雨がシトシト降れば オモイデはシトシトにじむ 黒いコーモリ傘を指して 街を歩けば あの街は雨の中 この街も雨の中 電信柱もポストも フルサトも雨の中 しょうがない 雨の日にはしょうがない 公園のベンチでひとり おさかなをつれば おさかなもまた 雨の中」雨が降ってきたら拙い連想が始まる。頭の中でごっちんが唄う。今ふと気づいたのだが、頭の中で再生される音楽はステレオの音像定位がほんの少し右に寄ってるように思う。重心が少しだけ右にある感覚がある。無理やり左に重心をずらしてもやはり右の方に少し寄っている感覚がある。僕の頭の中だけのことだろうか。それともたまたま今自分の脳がそういう状態であるということに過ぎないだろうか。まぶたがそろそろはりついた様にこわばっていて、そしてこれが眠気というものだから、そういったものの正常性についてなどもう果てしなくどうでもよい。この唄ごっちんはどんな事考えながら唄ったんだろう?字面に限ればまるで素っ頓狂なその内容に何となくでもとまどったりしただろうか?ほとんど意味なんて意識しないで、どこで息継ぎするかとか、アクセントを置く場所とか歌唱の技術的な部分にこだわるだけこだわって、やっとこさ録音し終わったら「で、これはどういう唄なんですか」なんてさらっとたずねちゃうおとぼけ感覚が、彼女にまつわる妄想の何がしかをスムーズにさせなくもなく、そんな彼女を映像化してみるとそれだけでなんだか楽しい気分になった。

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例えば誰かが唄うのを「心がこもっていない」とする非難はとても鈍くさくて、ほほえましくて、かわいい。心がこもってないからその唄は駄目だ、というのは一体何を言わんとしているのだろう。正気だろうか。正気じゃないだろう。少なくとも「心がこもってない」と非難する人は「お前心持ってないくせに〜!」と非難されることを覚悟せねばならない。いや、そんな覚悟はするな。ともあれその非難は、「お前の声は嫌いだ」とか「お前の唄はつまらない」というのと客観的な価値判断としてほとんど次元が変わらないのだが(唄の価値判断は無論一様でない)、そういった価値的な何事かを言っているフリをしているし言いたいのだという溢れんばかりの「気持ちが伝わる」ので、中学生の恋愛のように鈍くさくて、ほほえましくて、かわいい、というわけだ。亜種は、ニュアンスにダイナミックな変化をつけた「技術は認めるが心はこもってない」だ。どちらにしても「心がこもってない」と言われたら、「お前に心なんてこめるかよ」と一言いってやれば、同じ次元での泥沼コミュニケーションが成立するのだけれども、譲歩して同じ次元にチャネリングしているのにも関わらず相手がぐらぐら怒りだすと容易に想像できるのは何故だろう。不条理だ。言い方の問題だろうか。「あなたには心なんてこめませんよ」とか「正解です、あなたには心をこめませんでしたから」とどんなに丁寧なバリエーションを考えても血まみれの惨事を避けられそうにない。
僕はこういうところ正直だから正直に書くけれど、今日お前の唄には心がこもってないって非難されたりしたわけではないんだー。